【これからの話】
小鳥たちのさえずりを目覚ましに、僕は目を覚ました。ぼんやりと滲んだ視界が少しずつ鮮明になり、見慣れた自室の天井と観葉植物の枝葉が目に入る。
体にかけられた布団の中でもぞもぞと何かが動いていた。ひょこりと顔を出したのはイガグリで、主人の起床が嬉しかったのかフンフンと鼻を鳴らしている。
「おはよう。何だか久しぶりの気分だよ」
彼の背中を撫でようとして手を伸ばすと、その手は彼の鼻をかすめ、驚いたのか首をぷるぷる振った。
「あっ、ごめん。痛かったかい?」
改めて彼の背中の針に沿って撫でてあげる。うっとりして今度はイガグリが眠ってしまいそうだ。僕もたっぷり寝たはずなのに、その顔を見ると眠気が込み上げてきそうだ。そこで疑問に思う。
「……小鳥のさえずりで目を覚ます? そういえば、今日はペトラのいびきが聞こえないな」
僕や兄さんを睡眠不足に追い込むほど大音量のいびきが聞こえない。代わりに部屋に届いたのは香ばしい匂いだった。
ベッドから出ると、自分の体が包帯やガーゼだらけということに気づいた。少々乱雑だが決して悪い処置ではない。手当てしてくれたのは、きっとこの先で朝食を作ってくれている彼女だろう。
廊下の壁に手をつきながら、体の痛みをこらえてキッチンに向かう。そこには、オーブンの中を覗き込む小さな女の子の背中があった。
「おはよう、ペトラ」
「おわっ!? お、おはようファーレン!」
寝ぐせの残る髪を振り乱して彼女が振り向いた。既に治りつつあるが、彼女の顔も傷や火傷の跡が目立つ。寝間着に隠された傷も含めれば、普通の女性が一生で負う量の傷をシラヌイとの戦いでこさえたことだろう。しかしハーフとはいえドワーフの血が流れているおかげか、僕とは違って痛みをやせ我慢している様子ではない。
「ありがとう。早起きして作ってくれてたんだね」
「そうよ、感謝しなさい!」
僕もオーブンを覗くと、中では丸々とした鶏肉がじわじわと焼かれていた。相変わらず朝からヘビーなものを食べたがるなと呆れていると、いつもの肉料理とは違う爽やかな香りも漂ってきた。
「あんたも食べやすいように香草を多めに馴染ませて、付け合わせの野菜も一緒に焼いてるの。それでも食べにくいならほうれん草のポタージュも作ってあるから、それだけでも飲んだら? ……何よ、その顔?」
「い、いや……本当にありがとう。お腹ペコペコだし、お肉もいただくよ」
「そう、良かった! あんたが起きなかったら一人で食べるつもりだったけど、さすがにちょっと多すぎたのよねぇ」
ペトラはしばらく焼いた鶏肉と付け合わせの野菜をオーブンから出し、お皿に切り分けてくれた。温め直したポタージュもお椀によそってくれる。濃いめの味付けを好むペトラだけれど、今日は調味料を抑えたのか素材の柔らかな味わいが引き立ち、久しぶりに料理を味わう舌も胃もびっくりしなかった。「美味しいよ」と素直な感想を述べると「そりゃそーよ!」と胸を張った後で、自分の鶏肉には塩を追加で振り始めた。
「それにしても、どうして僕は自分の家に? 重傷じゃないとはいえ、だいぶ衰弱していたはずだけど」
「病院なら、あんたのお兄さんも含めてウォリアーたちでいっぱいよ。あんたは軽傷だったし、減った魔力に関しては、あんたの部屋で寝かせて置けばいいかなって」
「僕の部屋に?」
「あんたの部屋ってジャングルみたいだけど、なぜか心地いいし、早く元気になると思ったのよ」
「……うん、その通りだよ。自分だって怪我だらけだったのに、よくそんなに正しい判断ができたね」
魔術を使えないペトラが僕の部屋の仕掛けに勘づくとは思わなかった。シラヌイとの戦闘後の対処も含め、彼女はウォリアーとして一つ上の段階に進んだのかもしれない。そう考えると、ペトラを共同作戦に参加させたボスの判断も正しかったということか。逆に僕は反省すべきことばかりだ。
「食欲があるのは良かったけど、体調は大丈夫なの? わだすは魔術とか分かんないけど、あの時使ってた交流魔術は危険だったんでしょ?」
「ああ……それなんだけど」手にしていたお椀をテーブルに置き、左目を隠した。「起きた時から、右目が見えないんだ」
「ええっ!?」ペトラの握るフォークがひしゃげる。
「初めて交流魔術を使った時も、しばらく後遺症が残ったんだ。あの時は左足の感覚が三日間なくなって、その間杖を使ってたっけ。だから右目の失明もしばらく経てば治るはずだよ。むしろ、この程度で済んで幸運だった。最悪死ぬリスクもあったからね」
そう、死ぬ可能性もあった。生還した今、あの時の自分の判断を思い出すと、努めて見せている明るい表情が歪みそうになる。こうしてペトラの成長を喜びながら食事する未来が失われていたかもしれない。そう考えると兄さんが竜血の杖を忌み嫌っていたのも正しくて……また自己嫌悪に陥りそうになる。
「ファーレン!」
「うん?」
「あの杖や魔術を二度と使うな! ――とは言わないわ。賢いあんたが全部承知の上で判断したことなんだから、今更わだすが口出しする必要はないでしょ。でも、それで強敵を倒せたとしても、それは負けよ! 敵を倒して、家に帰ってご飯を食べて、ふんぞり返ってみんなに自分の活躍を自慢する。そこまでやって『勝った』と言えるんだから!」
言い終えると、彼女は湯気が落ち着いてきた鶏肉にかぶりついた。
本当に、反省すべきことばかりだ。距離感がつかめない視界に気を付けながら、お椀を手に取り口に運ぶ。とろっとしたスープを飲み込み、ほうっと息を吐く。
「ペトラの言う通りだな。これ以上寝てたら体が鈍りそうだし、今日は目いっぱいふんぞり帰りに行こうか」
ギルド本部に向かう道の途中に、主にウォリアーが利用する小さな病院がある。ついでに兄さんたちのお見舞いに行こうと立ち寄ってみると、ちょうど兄さんとカルボーさん、その他ファルケ・騎士ギルドのウォリアー三名と鉢合わせした。傷だらけのお互いを見て、自然と笑みがこぼれた。
「ご苦労様、レン君。よく頑張った!」
「兄さんこそお疲れ様。怖いぐらいの戦いぶりだったよ」
「嬢ちゃんもよく頑張ったな。しかし、可愛い顔が台無しだぜ?」
「あんたこそ悪くなかったわよ。ひげが半分燃えたのが笑えるけど」
合わせて七人でギルドに向かう。どうやら兄さんたちも僕を見舞った後に向かう予定だったらしい。
「重傷のメンバーはしばらく療養してもらうけど、俺たち軽傷者は明日にはファルケの本部に帰る予定だ」
「随分急だね」
「ファルケの主力をいつまでも遠方に派遣するわけにはいかないからね。傷なんて帰りながら治せばいい」
「ワイルドな考え方だなぁ……」
「とんでもない! ワイルドどころかビジネスのためだよ! 共同作戦とはいえ、大型のドラゴンを倒したことでギルドの名に一層箔が付いたからね。これからは今まで以上に依頼が舞い込んでくるはずだから書き入れ時さ! もちろんイーゲル・騎士ギルドの方も同じだろうね」
「そうなるといいな。大陸一の騎士ギルドを目指しているのは兄さんたちだけじゃないからね」
「フフッ。レン君たちには負けないよ!」
道を歩いているとヒューゲルの市民たちの視線がこちらに向く。傷だらけの男たちが歩いていれば当然だと思うが、彼らの口から度々「ドラゴン」と聞こえるから、シラヌイ討伐の噂が既に広まっているのだろう。ヒューゲル市民の多くはシラヌイ襲撃の恐怖を覚えているはずだから、憎き仇敵を倒した英雄視しているのかもしれない。
「――レン君はもう一人前だ」
「どうしたの、急に? それに僕はまだまだ半人前だよ」
「レン君が交流魔術に踏み切ったのは、彼らを守るためだろ? ディアナさんが立ち上げたギルドに所属する君らしい判断だ。いつの間にか、ギルドのビジネス面ばかり気にするようになった俺とは大きな違いさ」
「兄さんが間違っているとは思わないよ。僕やボスだってギルドを大きくしたいし、それは結果的に人々を守ることに繋がる」
「そう、本質はそこだ。だからね」兄さんは前を向いたまま続ける。「竜血の杖も、交流魔術も、使い方はレン君に任せる。俺はもう何も言わない。一人前の人間として、どんな結果になろうと受け止めるんだ。できるね?」
「……うん。頑張るよ」
「レン君らしい答えだなぁ」
そう言って笑う兄さんの声はどこか寂しそうだった。
赤いハリネズミが描かれた看板を掲げるイーゲル・騎士ギルド本部。中に入ると、ギルド職員や偶然その場にいたウォリアーや来客たちが一斉に僕らを見て、歓声と拍手を送ってくれた。初めてのことに照れ臭くなってしまうが、他のメンバーは慣れているのか堂々としたものだ。
二階からボスが下りてきて僕と兄さんを呼ぶのでついていく。国からギルドに支払われる報酬の分け前についての話で、ボスと兄さんの交渉の結果、イーゲル・騎士ギルドの取り分は二割の約三千万ゲルトとなった。参加した二十四人中四人しかイーゲルのメンバーがいなかったことを考えれば充分な取り分だ。
「今回はありがとう。次回はだまし討ちのような真似はせず、正々堂々と誘って欲しいものだがな」
「私は一介のウォリアーに過ぎませんから、その辺りはうちのギルドマスターに伝えておきます。機会がありましたら、またご一緒しましょう」
別れの握手の際、ボスは手が震えるほど全力で握り、兄さんは眉間にしわを寄せながら笑顔を見せていた。
一ヶ月後の夜。ゴルドさんの退院祝いとして、ボスはギルド職員全員と専属ウォリアーを連れてギルド提携の酒場に向かった。貸し切りの酒場に屈強な男たちや可憐な女性職員が流れ込む。
「いらっしゃい!」
誰よりも大きな声で挨拶したのは、奥の厨房からぬっと顔を出したキームさんだった。酒場のマスターに断ってこちらに歩み寄る彼の片足は義足になっていた。歩く度に金属の関節がキシキシと小さく軋む音が鳴る。
シラヌイとの戦いで重度の火傷を負い、切断したらしい。それがきっかけでウォリアーを引退したことはボスから聞いていたが、いざ目の当たりにするとやるせない気持ちになる。
「そんな顔をするな、ファーレン」彼の大きな手が頭を撫でる。「元々、肉体的に限界は感じていたんだ。義足は不便だが、ウォリアーのように動き回る仕事でもないから今じゃ何も問題ない。それに、お前に言うのは初めてだが、実は自分の酒場を持つのが夢だったんだ。その下積みと考えれば、ここでの仕事も結構楽しいんだぞ」
「お前は料理の腕はいいんだが、なぜか酒の味だけはさっぱり分からねえよな。いっそ酒場のマスターじゃなく、うちの料理人になったらどうだ?」
「あはは……マスター、後輩たちの前でその言い方はやめてくださいよ」
ウォリアーにとって怪我による引退は珍しいことじゃない。とはいえ、日常生活に支障が出たり、次の職に就けなかったり、円満に引退できないウォリアーも多い。
片足を失ったとはいえ、その点ではキームさんは幸せなのかもしれない。少なくとも彼の笑顔に卑屈さは見えなかった。
約二十名が席に着き、各々最初の一杯や料理を決めていく。病み上がりの僕がほぼノンアルコールのビールを注文したのに対し、上機嫌のボスはアルコール度数の高いウイスキーを注文しようとしたので、周囲の面々がそれを全力で阻止した。しぶしぶボスはジュースと大して変わらないカクテルを注文したのだった。それでも酔いつぶれるのがいつものパターンなのだが。
「なんだか、こうしてファーレンさんと一緒に食事するのは久しぶりですね」
「そうねぇ。ファーレンくんが討伐に出てからギルドに復帰するまで、ハンナちゃんは毎日彼のこと心配してたものね」
「イッ、イレーネさん! 変な言い方しないでください! 同僚として普通に心配してただけですから!」
「あはは……でも、ありがとうございます。僕が戦っていた時もですが、それ以降も仕事のサポートしていただいて感謝しています」
「でも、本当に大丈夫なんですか? その右目……」
ハンナさんの視線が、眼帯を着けた僕の右目に向けられる。一ヶ月経っても右目の視力は戻っていなかった。
「キームさんの義足じゃないけど、片目の生活も慣れちゃったよ。一応治療も受けてるし、もうすぐ戻るんじゃないかな」
「それならいいんですが……」
「ほら、二人とも」イレーネさんが僕らの注文したお酒を渡しながらボスを見る。「ボスの話が始まるわよ」
見ると、涼し気な水色のカクテルのグラスを手にしたボスが立ち上がり、僕らを見下ろしていた。宴の名目はゴルドさんの退院祝いだが、ボスから何らかの発表があると噂が流れていたのだ。
「みんな、いつも仕事ご苦労! 突然で悪いが、主要メンバーが再び揃った今、弊ギルドの今後について周知する!」
腰に手を当てて宣言するボスの声が場を支配する。宴会ムードが一瞬で引き締まった。
「ゴルドー、キーム、ペトラ、ファーレン、そしてファルケ・騎士ギルドの尽力により、憎きシラヌイを討伐することができた。感謝する!」
ボスが一人一人に向かって深々と一礼する。自然と拍手喝采が沸き、それらが収まってからボスは話を続けた。
「それにより三千万ゲルトという大金を手にすることもできた! この資金を活かし、近隣の騎士ギルドが存在しない小都市二ヶ所に支部を設置する予定だ! 各支部にはベテランの職員と専属ウォリアーを数名派遣し、運営と共に現地で雇用した新人の教育にも努めてもらいたい! 人選は後日発表する!」
ボスの発表にどよめきが起きた。未だに騎士ギルドが存在しない都市ということは、他のギルドが「採算が取れない」と判断したと同義だ。ギルドマスターの判断としては愚策と言っていい。普通のギルドなら。
「またですか、ボス」特大のビアジョッキを手にするゴルドさんが笑う。「俺らが体張らなきゃ、このギルドはとっくに潰れてますぜ? 病み上がりにはきついぜ」
彼に続き、他のウォリアーや職員たちも笑いながら声を上げる。
「俺らが市民の最初のヒーローになる……素敵じゃないですか! そのためにウォリアーになったんですから!」
「ボスの無茶ぶりに慣れてしまって、もう他の職場じゃ働けませんよ!」
「新人育成は俺に任せてくださいよ? あっ、別に先輩風吹かせたいからじゃないっすからね!」
イーゲル・騎士ギルドは「魔物から人を守りたい」というボスの意志を反映している。必然、こんな最弱ギルドに集まるのは志を同じくした変人たちばかりなのだ。僕らにとって、魔物の恐怖から解放された人々の笑顔と感謝の言葉はどんな美酒佳肴よりも満たしてくれる。
「とりあえず、この場で話せるのは今後の方針のみだ。詳細は詰めてから後日伝える。それに、あたしなんかの話でせっかくのご馳走を冷ますわけにはいかないからな」
もうもうと湯気を上げる料理を店員たちが運んでくる。キームさんが加わったことで酒場の料理はワンランクアップし、メニューの数も増えた。ヒューゲルで一番料理が美味い酒場と言っても過言ではないだろう。厨房のキームさんが自慢げに腕を組んでいる。店内は色とりどりの料理と香りで満たされ、そこら中から腹が鳴る音が聞こえた。
全員に酒と料理が行きわたったところで、全員ジョッキやグラスを手に立ち上がる。
「それでは諸君! 我らがイーゲル・騎士ギルドの繁栄に!」
「乾杯!!」
乾杯の音頭と共に全員が酒をあおる。酒と勝利に酔う彼らを見て、僕はようやくシラヌイに勝ったという実感が湧いた。
とはいえ、高揚感は薄い。あの戦いで命を落とした人や、未だ意識不明の重体という人もいる。僕の右目もいつ回復するか分からない。本当に勝利と言えるのだろうか?
「ファーレンさん、今夜は思いっきり楽しみましょうね!」
早くも頬が紅潮し始めたハンナさんが満面の笑みを見せる。
「ファーレンッ! 辛気臭い顔してんじゃないわよっ!」
さらにはジョッキと骨付き肉を手にしたペトラも言い寄って来た。無理やり肉を僕の口に突っ込もうとするので躱す。イレーネさんはそれを見て頬を緩めながらビールを一気飲みしていた。
「……そうだな。今日は細かいことは忘れて楽しもう! キームさんの新メニューも全部注文しようか!」
「やった! わだすこれも食べたいっ!」
魔物が闊歩するこの世界では、僕らがどれだけ活躍しようと不安がなくなる日は来ないのかもしれない。いや、仮に魔物が絶滅したところで今度は別の恐怖が去来するだろう。
でも、たとえ刹那的な平和でも、積み重ねていけばそれは安息の時代となるだろう。年を取り、寿命を迎えた老人たちが「平穏な人生だった」と締めくくれるように、僕は僕の役目を全うしたい。唯一の調査士として。
「ほら、ファーレン! 注文したの来たわよ!」
「よしっ! 一つもらうよ!」
ペトラが掲げる皿に乗った香辛料たっぷりのステーキにフォークを突き刺して口に運ぶ……その直前に断面を見て、そっとステーキを戻した。
「あっ。やっぱり焼き加減をレアで注文したのは駄目だったかしら?」
「……せめてミディアムにして欲しかったな」
ステーキも満足に食べられない血液恐怖症の僕を見て、みんなは失笑していた。