第37話:達観
「お待たせ致しました。こちら『ルーローのアジフライ』でございます。数学者の見つけた美しい図形をお楽しみください」
界が微笑みながらアジフライ定食をテーブルに置くと、椅子に座っていたカップルはそのフライをじっくり眺めた。
「うわ〜、美味しそう!」
「図形って、どこかな?」
「ここじゃね?」
「いや分からんてw」
「でも、面白いね」
「ね。高校の時、数学が嫌いだったんだけどさ」
界はお盆を脇に抱えながら、厨房へと戻る。この光景は、「アイントホーフェン」では日常茶飯事だった。科学に何の興味も無かった人が、料理をきっかけに科学談議に花を咲かせる。それこそが、店員にとって一番の喜びだった。
「界くん、7番卓にハンバーグをお持ちして」
光は鍋の火加減を確かめながら、界に声をかける。彼は「はい」と頷くと、ハンバーグが鎮座しているお皿をお盆に載せた。日曜日のお昼時は忙しい。彼も忙しく働いていた。
「よいしょっと」
彼は7番卓で理科年表を読んでいる、理知的な雰囲気を醸し出す女性のところへ向かった。
「イレーヌさん、こちらいつもの一品です」
界の声を聞いた彼女は、得意げにこちらに視線を向けた。
「いつも、ありがとな。この間の定例会は楽しかったよ」
「は、はい」
彼は先日の「宇宙人論争」を思い出していた。あの時は本当に生きた心地がしなかったな...
「で、話は変わるんだが」
「はい」
「私、今は対数表を覚えているんだ」
「えっ?」
彼女は「いただきます」と唱えると、ハンバーグにナイフで切り込みを入れていく。
「難しそうに見えるだろ。でも意外と簡単で...」
彼女の講義が始まる予感を感じ取った彼は、断る言い訳を考え始める。が、レジで会計をしていた舞が助け舟を出してくれた。
「界くーん、初めてのお客さんがいらっしゃったわ。ご案内をお願い」
彼は「はーい」と返すと、頬を膨らませるイレーヌさんに軽く頭を下げて出入口の方へと向かう。やれやれ、助かった。
「ふう、疲れた...」
彼は日曜昼のピークを終え、椅子に座り込む。光と舞も、向かい側の椅子に腰掛けた。
「今日は大変だったな。でも2人のおかげで助かった」
光はそう言うと、コーヒーを一口飲む。舞はそれを見て笑った。
「お父さん、バイトの朱鷺ちゃんを忘れてるよ」
「ああ、すまない。あの子も頑張ってくれたからな」
「一緒にお茶でも飲みましょ、って誘ったんだけど、脱兎の如く帰っちゃったのよ」
舞はそうぼやきながらクリームソーダをストローでつつく。
「大学生は忙しいから、仕方無いんじゃないですか」
界はコーラを口に含んだ。朱鷺というバイトの子とは何回か話したが、あまり口数の多くない少女だった。でも働き者で、忙しい時間帯は本当に助かっている。
「界くんは、大学とか行ってるのか?」
光の問いに、界は髪を掻きながら答えた。
「本当は行きたかったんですけど、親からお金が無いから行けない、って言われちゃって。それで高校を卒業してから、すぐ就職したって訳です」
「...界くんも苦労してるんだな」
光は複雑な表情を浮かべて、カップの水面を眺める。界は慌てて取り繕う。
「まあでも、今の生活でも十分ですよ。お金のことも、仕方無いかなと思ってますし」
舞はクリームソーダの中のアイスを、スプーンで崩した。
「界くんはさ、なんか達観してるよね」
「え?」
驚く界に、舞は髪を整えながら続ける。
「ちょっとだけ、羨ましいな」
界はしばらく黙り込んでいたが、コーラを一口飲んでから舞の方を見た。
「多分それは、達観ではなくて...」
...諦めです。彼はその言葉を飲み込んだ。




