第29話:カフェ「アイントホーフェン」
「おはようございます」
界は少し古風な木製の扉を開ける。その奥には、アンティーク調家具や古めかしい本棚、色水の入った試験管や昔の顕微鏡などが並んでいた。さらに壁には、生命の系統樹や量子力学の歴史、ノーベル賞受賞者に関するポスターの数々。天井からは人工衛星「ひまわり7号」の模型。
この異様な空間こそが、界の職場であるカフェ「アイントホーフェン」である。何故このカオスな空間になったのかと言うと...
「おお、界くん。おはよう」
界は厨房の方から出てきた、初老の男性に頭を下げる。
「おはようございます、光さん」
「今日もよろしく、な」
光は微笑みながら、界の肩をポンと叩く。界は周囲を見渡した。
「...相変わらず、凄い空間ですよね」
「まあ、それは私の趣味でもあるからね。でも、不思議と悪い気はしないだろう」
「ええ。理科オタクにとっては、落ち着く空間です」
「それが、私たちの理念だからな。さあ、仕込みを始めるとしよう。今日は土曜日だから、いつもよりお客さんが多いぞ」
「はい」
界は頷くと、厨房へと向かう。
光はこのカフェの店主であり、本名を初山別光と云う。彼は生粋の理科オタクで、若くして就職した高級ホテルを退職すると同時に、このおかしなお店を始めた。このカフェのモットーは、「科学を人々に」。店名の「アイントホーフェン」も科学者の名前であり、心電図を発見した功績でノーベル生理学・医学賞を受賞した人物だ。
「さて...いつも土曜日にいらっしゃる常連さんは...」
光は常連さんを記したメモを眺める。そこには筆記体の英語でカフェの常連の愛称が書かれていた。界も一緒に確認する。
「イレーヌさんとシーボーグさん。後は...」
光はその後にも、十数人の科学者の名前を挙げた。界は頷きながらそれを聞く。
「...今日も楽しそうですね」
「ああ。じゃ、あっちの野菜を切ってくれ」
「はい」
界と光は、ラジオに耳を傾けながら仕込みを行う。界はキャベツを切りながら、部屋に置いてきたファイのことを考えた。あいつ、部屋をかき回したりしてないだろうな。書きかけの小説を読まれたりしたら、面倒くさいな...
「界くん」
「...はいっ」
「機嫌良さそうだな。普段は無表情なのに」
「え、そうですか?」
「もしかして、良いことでもあったか」
「い、いや...別に何でも」
「もしかして、彼女さんでもできたか?」
「...え」
界はまな板を眺めたまま黙り込む。光はふふっ、と笑った。
「そうか。これは舞にも報告だな」
「や、やめてください...! 舞さんには...!」
界がなおも否定しようとした時、呼び鈴が鳴って扉が開いた。そこには、20代半ばの元気な女性が立っていた。光の娘にしてこの店の看板娘、初山別舞である。
「お疲れ様で~す!」
「お、おはようございます!」
界は頭を下げる。光は右手を振った。
「おお、今日は遅かったな」
「いや~、電車が遅延しちゃって。お父さんと界くんは、もう仕込み始めた?」
「今始めたところだ。そっちで鍋の準備を頼む」
「承知で~す!」
舞は光の隣に立つと、石鹸で手を洗い出した。彼女は手を擦り合わせながら、界の方を向く。
「界くん、今日もよろしくね~」
「は、はい」
「ん? なんかいつもより、半オクターブ声が高いね」
「き、気の所為だと思います」
「もしかして、誰か気になってる子ができた~?」
舞は鍋を洗いながら問いかける。界は慌てて否定した。
「い、いえ。そんなことはありません」
「じゃあ、図星ね」
「え」
界は人参の皮を剥きながら、呆気ない声が零れるのを感じていた。
「なるほど~。冷静な界くんが動揺しちゃうくらい、可愛い子なんだね」
「だから、違いますって」
界はそう言いながらも、脳裏にファイの顔がちらつく。今朝も遅くまで寝ており、彼の布団をしっかり占領していた。でもその時の、寝顔が妙に可愛かったんだよな... は、いかんいかん。別に、彼女は宇宙人だし。元軍人だし。見つかったら大変なことになるから、うちで匿っているだけだし。
「やっぱり、ちょっと口角が上がっているわよ」
「えっ!?」
「あはは、若いって良いな」
舞の追い打ちに、光までそんなことを言う。界は咳払いをすると、切り終えた人参をボウルに入れた。
「別に、いつも通りです」
「やっぱり怪しいけどな~」
「まあ、界くんの言うことを信じよう。今は、な」
界は野菜を切りながら、しばらくファイのことは考えないようにしなければ、などと考えていた。




