第9話:あなたの歌は、魔石がなければ歌えないでしょう?
その違和感に私が気づいたのは、ほんの偶然だった。
歌比べを翌日に控えた夜。
城の回廊で、私はアマーリエが侍女に何かを命じているのを、目にした。
「いいこと絶対に肌身離さず持っておくのよ。これがなければ、わたくしの歌なんて――」
侍女の手に握られていたのは、毒々しい紫の光を放つ、拳ほどの魔石だった。
私はその光に見覚えがあった。
いいえ、正確にはその光が「不自然」であることに、気づいてしまったのだ。
私は柱の陰で息を殺した。
紫。
増幅の魔石なら、光は澄んだ青か白のはずだ。
実家の納屋に転がっていた蝋燭ほどの安物でさえ、濁ってはいなかった。
濁っているのに、あの子はそれを「これがなければ」と言った。
安物ではないのだ。
安物ではないものを、あの子はどこで手に入れたのだろう。
◇◇◇
翌朝、私はそのことを、ジルヴェスター様とブリュンヒルデに伝えた。
「紫の増幅魔石……だと?」
ブリュンヒルデの表情が、険しくなった。
「ええ。私、実家にいた頃、義妹の歌の練習を、いつも納屋の隙間から聞いていました。……あの子の地声は本当は、それほど豊かではないのです。それが社交界デビューの頃から突然、人々を熱狂させる『光の歌姫』になった。きっとあの魔石の力です」
「歌唱魔法を魔石で増幅している、というのか」とジルヴェスター様。「だがそれのどこが問題だ。魔道具に頼るのは、珍しいことではない」
「問題は」と、ブリュンヒルデが低く言った。「その魔石の色です。閣下。紫に濁った増幅魔石は――禁制品です。人の感情を、術者の意のままに昂らせる『扇動の魔石』。十年前、暴動を煽るのに使われ、王国法で製造も所持も禁じられています」
部屋の空気が張り詰めた。
窓の外で、風がひとつ鳴った。
ジルヴェスター様が、指先で机の縁を押さえる。
それきり、風は鳴らなかった。
「つまり義妹の『熱狂』は本物の感動ではなく――禁制の魔石で、無理やり人の心を煽った、まやかしだということです」
ジルヴェスター様の瞳に冷たい焔が灯った。
「闇市場でしか手に入らぬ品だ。一令嬢が、独力で手に入れられるものではない。……後ろに、誰かがいるな」
ブリュンヒルデが頷いた。
「調べさせます。おそらく、ハーゲン伯爵領の鉱脈が絡んでいるかと。あの家は近年、不自然なほど羽振りがよろしい」
「明日の祭で、取り上げますか」と彼女は続けた。
「いや」
ジルヴェスター様は短く答えた。
「取り上げれば、あれは『無かったから歌えなかった』と言い逃れる。……持たせておけ。持たせたうえで、届かぬところを見せる」
私は思わず彼を見た。
「閣下。それでは、私が――」
「勝てとは言っていない」
彼はこちらを見ずに、窓の外へ目をやった。
「私が四年ぶりに眠った夜、お前は勝とうとして歌ったか」
「……いいえ」
「ならば、同じでいい」
ブリュンヒルデが、ほんのわずかに口の端を上げた。
私はまだ、その表情の意味が読めなかった。
あとになって思えば、あれは、勝ちを確信した者の顔だった。
勝つつもりのない人が舞台に立つ――それがどれほど強いかを、彼女だけが知っていたのだ。
私は静かに目を伏せた。
義妹の華やかさの裏にあったのは、禁制品。
そしてそれを娘に与えていたのは、おそらく――私を「無能」と切り捨てた、あの父だ。
不思議と、腹は立たなかった。
あの家は、私にだけ何も与えなかったのではない。
与えられるものしか信じていなかったのだ。
声も、歌も、才も、金で買えるものだと思っていた。
だから買えないものを持って生まれた娘のことは、無能と呼ぶよりほかになかった。
◇◇◇
歌比べを前にした夜。
私は一人、自室で母の形見の――いいえ、唯一持ち出せた、古い髪紐をそっと握りしめた。
(お母様。私、明日、たくさんの人の前で歌います。馬小屋の子守唄を)
怖くなかった、と言えば嘘になる。
けれど私の歌はもう、独りぼっちの夜を慰めるだけの歌ではない。
四年眠れなかった人を救い、暴れる子竜を眠らせ、嵐すら凪がせた歌だ。
扉が開き、ジルヴェスター様が入ってきた。
彼は何も言わずに私の冷えた手を握った。
「閣下……」
「無理に勝とうとするな」と、彼は静かに言った。「ただいつものように歌え。私を眠らせたあの歌を。……あれが、本物だ」
その言葉が震えていた私の心を、まっすぐに支えてくれた。
それから彼は、少し困ったように視線を逸らして、こう付け足した。
「……明日は、私も聞いている。いちばん近くで」
聞いてやらんこともない、ではなかった。
聞いている、と、この人は言った。
「はい」と私は微笑んだ。「では、明日、行ってまいります」
そして私は思った。
明日、すべての人の前で義妹に告げるのだ。
あの、いつもの上品な笑みのまま、静かに。
――あなたの歌は、魔石がなければ歌えないでしょう、と。
ここまでありがとうございます。
紫に濁った増幅魔石。セレスがそれを「不自然だ」と見抜けたのは、実家の納屋の隙間から義妹の練習をずっと聞いていたからでした。虐げられていた年月が、この回で初めて武器の形になります。
そしてジルヴェスター様の一言、「勝てとは言っていない」。四年ぶりに自分が眠ったあの夜、お前は勝とうとして歌ったか――彼はそう訊きます。ならば同じでいい、と。勝つつもりのない人が舞台に立つことがどれほど強いか、この時点で知っていたのはブリュンヒルデだけでした。
もう一つ書いておきたかったのは、セレスが父に腹を立てなかったことです。あの家は与えられるものしか信じていなかった。だから買えないものを持って生まれた娘のことは、無能と呼ぶよりほかになかったのです。
いよいよ次は、鎮魂祭の歌比べです。【ブックマーク】していただけると、続きをお届けしやすくなります。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第10話「子守唄が、城中を眠らせた日」でお会いしましょう。




