第75話: 「教えられるのは、上手さではありません」
リーゼは、もう一度、歌った。
同じように外れた。同じところで裏返った。最後の伸ばしが、また息切れで切れた。
マルタは、目を覚まさなかった。
誰も、新しく眠らなかった。
二千人の中で、眠っているのは、その一人だけだった。
「――ご覧のとおりです」
舞台の袖から、ホルストが出てきた。
彼は、落ち着いていた。
「一人でございます。母親です。三日の旅と、昨夜の心労がございました」
「ホルスト」
「歌劇公様。私は、この娘を貶めておりません」
彼は、私のほうを見た。
「奥方様。二千人が眠れずにおります。この娘の歌で眠るのは、一晩に一人です。あちらの子らは、四十人を眠らせます。……どちらが、多くの人を救いますか」
劇場が、静かだった。
この人の言うことにも、間違いは無かった。
このふた月で、私は三度目に、それを思い知った。
「ホルスト」
私は、舞台の下から声を出した。
「あなたは、上手にする方法をご存じですね」
「二十二年やっております」
「私は、知りません」
彼の眉が、わずかに動いた。
「私は、教わったことがありません。母は、私を一度も直しませんでした。ですから私は、上手にする方法を、ひとつも教えられません」
私は、舞台へ上がる階段に足をかけた。
「それは、あなたのほうが、正しい」
「……では」
「ですが」
私は、リーゼの隣に立った。
「教えられるのは、上手さだけです」
ホルストが、黙った。
「誰のために歌うのかは、教えられません。それは、その子が、来たときにもう持っています」
私は、客席を見た。
「あなたは、それを十日で預かります」
「――お預かりするだけです。捨てはいたしません」
「では、いつ返しますか」
彼は、答えなかった。
二十二年、誰にも訊かれなかったのだろう。
「ホルスト。ひとつ、お願いしてよろしいですか」
私は、舞台の袖のほうへ声をかけた。
「一番の子を、もう一度、呼んでいただけますか」
痩せた男の子が、舞台へ出てきた。
少し怯えていた。私は膝を折って、目の高さを合わせた。
「さっきの歌、とても上手だったわ」
「……ありがとうございます」
「もう一度だけ、歌ってくれる?」
子どもは頷いた。息を吸いかけた。
「待って」
私は、その手を、そっと止めた。
「今度は、この広い客席に歌わないで。誰か一人に歌って」
子どもの目が、丸くなった。
「あなたのお母様は、いらしてる?」
「……います」
「どこ?」
子どもは、客席を見た。
左から、右へ。前から、後ろへ。
そして、しばらく探して、こう言った。
「わかりません」
誰も、何も言わなかった。
この子は、三月のあいだ、部屋に向かって歌ってきたのだ。
三百人の中の一人として、三百人ぶんの声の中で。歌う相手は、いつも「客席」だった。
客席の中ほどで、女の人が立ち上がった。
手を、おずおずと挙げた。
「ここ……ここです」
子どもは、そちらを向いた。
それから、息を吸って、歌った。
最初の一節で、声が震えた。
二節目で、拍がずれた。三節目の入りが、遅れた。あの、あまりに滑らかだった三節目が、今度はぎこちなく崩れた。
母親が、両手で顔を覆った。
泣いていた。
誰も、眠らなかった。
けれど、劇場の空気が、確かに動いた。
「音が乱れました」
ホルストが、静かに言った。
「三月ぶんが、一瞬で崩れます。これが、その歌い方の値でございます」
「ホルスト」
メルツ様が、初めて彼の名を、低く呼んだ。
彼は、まだ舞台の中央にいた。膝の埃も払っていなかった。
「私には、聞こえました」
「……歌劇公様」
「三月ぶん崩れた歌のほうが、私には、聞こえたのです」
彼は、顔を上げた。
笑い皺は、まだ動いていなかった。
「今日で、お暇をいただきます。給金は年末までお支払いします。稽古場は、明日から閉めます」
劇場が、ざわめいた。
ホルストは、表情を変えなかった。
彼は、深く一礼した。
それから、顔を上げて、こう言った。
「三年後に、お困りになります」
誰も、それに答えなかった。
彼は、袖へ引いていった。その足取りは、最後まで乱れなかった。
この人は、今日、二十二年ぶんの職を失った。
自分が育てた百二十七人の前で。
客席の後ろで、ジルヴェスター様が立ち上がっていた。
この人は、ホルストが袖へ消えるまで、ずっとそちらを見ていた。
私が舞台を降りると、短くこう言った。
「あの男は、三年後に雇われる」
「……どこかに、ですか」
「必ずどこかにだ。ああいう腕は、必ず誰かが欲しがる」
彼は、空になっていく客席を見渡した。
「だから、番号をやめさせたのは正しい。あの男を追い出しただけでは、また同じものが建つ」
夕暮れの舞台に、私とメルツ様が残った。
客席は空になっていた。マルタは、四刻ほど眠って、目を覚ました。目を覚まして、何が起きたのかを聞かされて、また泣いた。
「奥方様」
メルツ様が、舞台の縁に腰かけた。
「稽古場を閉めます。三百人が、明日から行き場を失います」
「はい」
「私は、あれをどうすればよいのか、わかりません」
彼は、両手で顔をこすった。
「二千人は、まだ眠れずにおります。数は、何ひとつ減っておりません。……私は、今日、五年ぶんの答えを失いました」
私は、その隣に腰を下ろした。
「メルツ様。金貨は、続けてお配りください」
彼が、顔を上げた。
「宿も、旅費も、教師も。稽古場も、閉めなくて結構です」
「……ですが」
「番号だけ、おやめください」
彼の口が、半分開いた。
「集めるのをやめる必要はありません。並べるのを、やめてくださいませ」
風が、空の客席を渡っていった。
メルツ様は、しばらく黙っていた。
それから、掠れた声で言った。
「では、教える者は」
「一人では足りません」
「奥方様」
彼は、私のほうを向いた。
「では、あなたが教えてくださるのか」
私は、首を横に振った。
「いいえ」
舞台の板が、夕日で赤かった。
「私は、教わりに来ました」
稽古頭は、間違っていません。ヨナス、歌劇公に続いて、三人目です。この娘の歌で眠るのは一晩に一人、あちらの子らは四十人を眠らせる。数の話としては、彼が正しいのです。
ですからセレスは、数で言い返しませんでした。数で言い返せる人間なら、そもそも二月も殿下への返事を書けずにいなかったと思います。彼女が持っていたのは、教わらなかったという一点だけです。母は一度も直しませんでした。ですから彼女は、上手にする方法をひとつも知りません。この回でいちばん書きたかったのは、その無力が、初めて武器になるところでした。
「では、いつ返しますか」――二十二年、誰もこの人にこれを訊かなかったのだと思います。彼は嘘をついていません。預かると言い、実際に捨ててもいません。ただ、返す日を決めていないだけです。制度というものはたいてい、悪意ではなくこの形で人を損ないます。
一番の子に「誰か一人に歌って」と言わせるかどうかは、最後まで迷いました。あれは、大人が子どもにしてよい問いの、ぎりぎり外側にあります。それでも書いたのは、この子がそこで探すという動作を、どうしても客席に見せたかったからです。母親を中ほどの席に座らせておいてよかった、と書き終えてから思いました。
ホルストは反省しません。反省させると、この話は「悪い先生を追い出した話」になってしまいます。彼は表情を変えず、深く一礼して、二十二年ぶんの職を、自分が育てた百二十七人の前で失っただけです。去り際の一言だけは、たぶん本気で心配して言っています。
夕暮れの舞台で、セレスが出した答えが「やめろ」ではなかったこと。ここが第三部の着地です。集めるのも、金貨も、教師も、止めさせていません。制度を壊した人間が二度目にやることを、第62話で一度書きましたので、ここでは壊させませんでした。
そして最後の一問には、「いいえ」と答えさせています。この人は、教える側には回りません。
ホルストの去り際に背筋が寒くなった方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第76話「子守唄は、誰のものでもありません」でお会いしましょう。




