第74話: 歌劇大会で、たった一人が眠った
王立歌劇場は、半年ぶりだった。
この春、私はこの舞台の上に立って、二千人の前で歌った。今日は、いちばん後ろの列にいる。
隣にジルヴェスター様が座っている。その隣に、ブリュンヒルデ様が立っている。
客席は、埋まっていた。
子どもの親、王都の見物人、商家の主、下級の役人。招かれた貴族の姿もあった。舞台の袖に、メルツ様が立っている。その少し後ろに、ホルストがいた。
鐘が鳴った。
「一番」
呼ばれて、小さな影が舞台へ出た。
私は、その子を知っていた。
東の稽古場の窓際で、ひとりで水を飲んでいた、痩せた男の子だった。
三節目が、いちばん難しいので、と言った子だ。
「――ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
上手かった。
三節目の入りが、あまりに滑らかで、私は喉の奥が痛くなった。
拍手が起きた。
誰も、眠らなかった。
「二番」
次の子が出てきた。
同じ歌を、同じ高さで、同じところで息を継いだ。
拍手が起きた。誰も眠らなかった。
「三番」
同じだった。
「四番」
同じだった。
二十番を過ぎたあたりから、客席の空気が変わり始めた。
拍手が、短くなった。
五十番を過ぎると、拍手は形だけになった。隣の席との私語が増えた。子どもが舞台へ出てくるより先に、次の番号を呼ぶ声のほうが待たれるようになった。
誰も、悪くなかった。
百二十七人が、同じ歌を、同じ形で歌う。それは、たとえ全員が名手でも、こうなる。
舞台の袖で、メルツ様が、じっと客席を見ていた。
その顔から、笑い皺が消えていた。
私は、その横顔を見ていて、ふと気づいた。
この人は、今日初めて、それを聞いているのだ。
三月かけて、三百人を揃えて、五十人ずつの稽古場を三つ回して、そのたびに彼が聞いていたのは、いつも「一人」だった。
百二十七人ぶんを続けて聞いたのは、この人も、今日が初めてなのだ。
九十番を過ぎた頃、後ろの列で、誰かが大きく欠伸をした。
ただ、退屈だったのだ。責める先が、どこにも無かった。
「百二十六番」
二千人が、もう、ほとんど聞いていなかった。
私は、膝の上で指を組んだ。
組んで、ほどいて、また組んだ。
このひと月半、リーゼがそうしていたのと、同じ形をしていた。
「――百二十七番」
最後の番号が呼ばれた。
舞台の袖から、小さな影が出てきた。
背が低い。手を、体の脇でぴんと伸ばしている。
客席の何人かが、腰を浮かせていた。終わったら帰ろうと思っていた人たちだ。
リーゼは、舞台の真ん中で止まった。
それから、客席を見た。
いちばん後ろの、いちばん端。
そこにマルタが座っていた。娘に見つけてもらえるように、朝いちばんで来て、そこに座ったのだ。
リーゼの肩が、上下した。
息を、吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
音が、外れた。
客席のあちこちで、小さな笑いが起きた。優しい笑いだった。それが余計に、私の胸を抉った。
二節目で、もっと外れた。
笑いが止んだ。
誰も助けてやれない外れ方だったからだ。
三節目の入りで、喉が引きつって、声が裏返った。
この子は、それでもやめなかった。
裏返ったまま、四節目に入った。
「今日の痛みは、夜が連れていく――」
最後の伸ばしが、途中で切れた。
息が、続かなかったのだ。
二千人が、黙った。
優しい静けさではなかった。ただ、何と言えばいいのかわからない、二千人ぶんの静けさだった。
舞台の上で、リーゼが立っていた。
膝が、震えていた。
その静けさの中で。
――音が、聞こえた。
私の三列前だった。
最初は、私にしかわからなかったと思う。
この城で、私はいちばん最後に眠る人間だ。人が眠りに落ちる瞬間の音を、私は、たぶん王国の誰よりも聞いている。
息が、深くなる音だった。
誰かが、首の力を抜いた。
隣の席の人が、驚いて、そちらを見た。その隣の人も。
波紋のように、視線が広がっていった。
いちばん後ろの、いちばん端。
マルタが、眠っていた。
肩を落として、前の席の背もたれに額を預けて。
深く、規則正しく、息をしていた。
二千人が、その一人を見ていた。
誰も、声を出さなかった。
舞台の上で、リーゼが目を丸くしていた。
この子は、まだ、何が起きたのかわかっていなかった。
「――事故です」
舞台の袖で、声がした。
ホルストだった。
「疲労でございましょう。三日の旅と、昨夜の――」
「ホルスト」
メルツ様が、それを遮った。
彼は、袖から舞台へ一歩出ていた。
私は、その顔を見た。
この人は、笑っていなかった。泣いてもいなかった。
ただ、口を半分開けたまま、客席のいちばん後ろを見ていた。
五度、願書を書いた人が。
二千を四十で割って、五十晩を数えて、百人という答えを出した人が。
いま、たった一人が眠るところを見ていた。
メルツ様は、舞台の中央へ歩いていった。
そして、リーゼの前で、膝を折った。
いつもそうするように。子どもと同じ、目の高さに。
「お嬢さん」
彼の声は、掠れていた。
「……もう一度、歌わせてください」
第三部のクライマックスです。
百二十七人が、同じ歌を、同じ高さで、同じところで息を継いで歌います。
一番の子は、東の稽古場の窓際で水を飲んでいた、あの男の子でした。三節目がいちばん難しい、と言った子です。上手いのです。三節目の入りが、あまりに滑らかで、セレスは喉の奥が痛くなります。
拍手が起きます。誰も眠りません。
二十番で拍手が短くなり、五十番で形だけになり、九十番で誰かが欠伸をします。誰も悪くありません。ただ、退屈だっただけです。責める先がどこにも無いのが、いちばんこたえます。
歌劇公は、舞台の袖で客席を見ています。彼は三月かけて三百人を揃えましたが、そのたびに聞いていたのは、いつも「一人」でした。百二十七人ぶんを続けて聞いたのは、この人も今日が初めてでした。
最後が、百二十七番です。
外れます。優しい笑いが起きます。二節目でもっと外れて、笑いが止まります。誰も助けてやれない外れ方だからです。三節目で裏返って、それでもやめずに四節目に入って、最後の伸ばしが息切れで切れます。
第61話の中庭と、ここまではまったく同じです。あの朝も、二節目で外れて、三節目の前で喉が引きつって、誰も眠りませんでした。
違ったのは、客席のいちばん後ろに、母親が座っていたことだけです。
セレスは歌っていません。この回で歌うのは、いちばん下手な子です。人が眠りに落ちる瞬間の音を、この城でいちばん最後に眠る人間が、二千人の中でいちばん最初に聞き取りました。
「事故です」「疲労でございましょう」――稽古頭は、そう言おうとしました。
歌劇公は、それを遮りました。
五度願書を書いて、十一人を看取って、二千を四十で割って百という答えを出した人が、いま、たった一人が眠るところを見ています。
彼は舞台の中央へ歩いて、いつものように膝を折ります。子どもと同じ、目の高さに。
「……もう一度、歌わせてください」
次回、第75話「『教えられるのは、上手さではありません』」でお会いしましょう。




