第73話: 百二十七番、リーゼ
番号は、くじではなかった。
稽古頭が三月かけて見立てた順に、上から振られていた。
一番が、いちばん上手い子だ。
百二十七番が、いちばん下手な子だった。
誰も、それを紙に書かなかった。書かなくても、貼り紙の前に立った親は、半日で全員それを理解した。
その日、宿の空気が変わった。
番号の若い子の親が、廊下ですれ違うときに目を伏せるようになった。悪気ではない。何と言えばいいのか、誰にもわからなかったのだ。
マルタは、部屋から出てこなくなった。
夕方、私は東向きの部屋の扉を叩いた。
マルタは、寝台の端に座っていた。両手を膝の上で固く組んでいた。
「奥方様。あの、わたし」
「はい」
「明日、帰ろうと思います」
彼女の声は、ひどく落ち着いていた。落ち着かせるのに半日かかったのだろう。
「金貨は、お返しします。旅の費えも、お返しします。何年かかっても」
「マルタ」
「村で、皆が褒めてくれたのです。祭りでも。だからわたし、この子は本当に上手なのだと」
彼女は、そこで初めて、声を詰まらせた。
「……わたしが、悪いのです」
「悪くありません」
「わたしが連れてきたのです。三日も歩かせて。あの子に、いちばん下手だと、紙に貼り出させるために」
部屋の隅で、リーゼが立っていた。
この子は、母親の言葉を最後まで黙って聞いていた。
それから、こう言った。
「わたし、出ます」
マルタが、顔を上げた。
「リーゼ」
「出ます」
もう一度、同じ声で言った。
私はその子の前に膝を折った。
あの朝、城の中庭でそうしたのと、同じ高さに。
「リーゼ」
「はい」
「ひとつだけ、聞かせて」
私はそこで一度、息を吸った。
ひと月半、この子を預かった。音を三か所直した。九人に増えて、王都まで連れてきた。稽古場を見せた。番号を貼り出された。
そのひと月半のあいだ、私は一度も、これを聞いていなかった。
「あなたは、どうして、歌いたいの」
リーゼは、母親のほうを見た。
見て、それから、床に目を落とした。
「……怒られますか」
「怒りません」
この子は指を組んだ。
組んで、ほどいて、また組んだ。
「お母さんが、夜、起きてるので」
部屋の空気が、動かなくなった。
「お父さんが死んでから、ずっとです。夜に、台所にいます。座ってます。何もしないで」
マルタの手が口元へ上がった。
「わたし、寝たふりして見てました。ずっと」
リーゼは、まだ床を見ていた。
「去年、行商のおじさんが、辺境の奥方様の子守唄っていうのを歌ってくれて。それを聞いたら、お母さんが、ちょっと笑ったんです」
私は、動けなかった。
「だから覚えました。一回で覚えました。……でも、わたしが歌っても、お母さんは寝ないんです」
この子は、そこで、初めて顔を上げた。
「上手じゃないから、寝ないのかなって、思って」
マルタが、崩れた。
声も出さずに、寝台から床へ滑り落ちて、両手で顔を覆った。
この人はひと月半、娘の歌を「上手だ」と言い続けてきた。
ひと月半どころではない。一年、村じゅうに言い続けてきた。
その歌が、自分のために作られたものだと、たった今、知ったのだ。
「マルタ」
私は、その肩に手を置いた。
「あなたは、悪くありません」
「……奥方様」
「この子は、村の祭りのために歌っていたのではありません。あなたの台所のために歌っていました」
リーゼが、母親の背中にそっと手を伸ばした。
小さな掌で二回、叩いた。
三日歩いてきた朝、この子は夜明け前から門の前に立っていた。
三日、歩き通せた。夜明け前から立っていられた。
私はあのとき、それを必死な母親の熱意だと思った。
違った。
この親子は、もともと夜に眠っていなかったのだ。
部屋を出ると、廊下にジルヴェスター様が立っていた。
いつからそこにいたのかは訊かなかった。この人はいつも扉の外にいる。
「聞いておられましたか」
「ああ」
彼は壁にもたれたまま、天井を見ていた。
「セレスティア」
「はい」
「あの母親は、何年も眠っていない」
私は、その横顔を見た。
「私と同じだ。歌う者が隣にいた。それだけが違う」
彼は壁から背を離した。
「あの娘の歌は、届いている。届いていないと思われていたのは、母親のほうが起きているのを隠していたからだ」
その夜、私は宿の卓で、羽根ペンを取った。
書くのに、迷いはなかった。
――大会の審査員のお役目、謹んでご辞退申し上げます。
――私は、あの子たちを並べる側の席に、座ることができません。
――当日は、客席におります。いちばん後ろで結構です。
言い訳は、一行も書かなかった。
封をして、使いに渡した。
窓の外で、王都の広場から、まだ歌が聞こえていた。
明日、この街の百二十七人が、順番に、あの歌を歌う。
私は蝋の落ちた指先を見た。
辞退はした。
それで、あの子の番号が変わるわけではなかった。
番号は、くじではありませんでした。稽古頭が三月かけて見立てた順に、上から振られていました。一番がいちばん上手い子で、百二十七番がいちばん下手な子です。誰も紙にそう書きません。書かなくても、貼り紙の前に立った親は半日で全員それを理解します。
囲ってはいません。刻印もありません。名簿もありません。ただ、上手い順に並べただけです。
――第61話で、王女殿下が「それを止める理由が、私には、書けません」と書いた、あの並べ方です。
マルタは帰ろうとします。金貨も旅費も返す、何年かかっても返す、わたしが悪いのだ、と。村で皆が褒めてくれた。祭りでも褒められた。だからこの子は本当に上手なのだと思った。……この人を責められる人が、どこにいるでしょうか。
そこでセレスが、ひと月半のあいだずっとしていなかったことを、ようやくします。
「あなたは、どうして、歌いたいの」
第61話で、彼女は公爵様にこう言いました。上手にする方法は教えられない、けれどこの子がどうして歌いたいのかは一緒に思い出せます、と。
言ったきり、ひと月半、一度も聞いていませんでした。音は三か所直したのに。
答えは、台所にありました。父を亡くしてから、母が夜に眠っていない。座っているだけの背中を、この子はずっと寝たふりで見ていた。行商人の口ずさんだ子守唄を聞いて、母がちょっと笑った。だから一回で覚えた。
「でも、わたしが歌っても、お母さんは寝ないんです」
「上手じゃないから、寝ないのかなって、思って」
三日歩き通せたのも、夜明け前から門に立っていられたのも、この親子がもともと夜に眠っていなかったからでした。第61話のあの朝の意味が、ここで変わります。
セレスは審査員を辞退しました。並べる側の席に座れないからです。
それで番号が変わるわけではありません。明日、この街の百二十七人が、順番に歌います。
次回、第74話「歌劇大会で、たった一人が眠った」でお会いしましょう。




