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第72話: 下手な歌だけが、あの人を楽にした

「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 窓の鳴りが、すぐに収まった。


 膝の上の額から、熱が引いていく。彼の指が、私の袖を握ったまま、ゆるんだ。


 窓を押さえていたメルツ様の背中が、少しだけ下がった。


 私は、二節目に入った。


 ――そのとき、階下から音が消えた。


 消えすぎていた。


 この宿には、子どもが九人いる。親が七人いる。夜番の騎士が二人いる。誰かが寝返りを打つ音も、床の軋みも、何ひとつ聞こえなくなっていた。


 私は、歌をやめた。


 やめてから、階段を駆け下りた。


 二階の部屋の扉が開いていた。


 マルタが、寝台の脇に膝をついて、娘の肩を揺すっていた。


「リーゼ。リーゼ。起きて。ねえ」


 揺れていた。


 揺れているのに、目を開けなかった。


 隣の部屋も同じだった。九人とも、寝台の上で、深く、規則正しく息をしていた。眠っているというより、沈んでいた。


 城で七人が丸一日目を覚まさなかった、あの晩を思い出した。


 あれから半年が経っている。あのときの原因は、もう解けたはずだった。


 解けていなかった。


 器は、まだ彼の血の中にいる。新月には寝返りを打つ。そして私が歌えば、あれは、私の歌を三百年前の力で押し広げる。


 王都には、稽古で疲れ切った子どもが何百人もいる。


 この宿に九人。


 もし私が三節目まで歌っていたら、と考えて、私は手すりを掴んだ。


 子どもたちは、一刻ほどで目を覚ました。


 九人とも、けろりとしていた。よく眠れた、と言った子もいた。


 マルタは、廊下で膝から崩れて泣いた。私はその背中に手を置くことしかできなかった。


 三階へ戻ると、ジルヴェスター様が床に半身を起こしていた。


 まだ、汗をかいていた。


「歌え」


「歌えません」


「セレスティア」


「歌えません」


 私は、自分の声が固くなるのを聞いた。


「二節で、あの子たちが沈みました。次は、宿の外まで届きます。この街には、子どもが何百人もおります」


 彼は、それきり何も言わなかった。


 言わずに、また首の後ろを押さえた。


 私は、その隣に座って、朝まで起きているつもりだった。


 できることが、何ひとつ無かった。


 真夜中を過ぎた頃、扉が細く開いた。


 リーゼだった。


 寝間着のまま、廊下の暗がりに立っていた。


「起こしてしまいましたか」


「いえ」


 この子は、首を横に振った。


「わたし、さっき、いっぱい寝たので」


 それから、部屋の中を覗き込んだ。


 床に座ったままの、大きな男を見た。


「閣下、痛いんですか」


「痛くはない」


 彼が、掠れた声で答えた。


「眠れんだけだ」


 リーゼは、しばらく黙っていた。


 それから、部屋に入ってきて、扉の内側にぺたりと座った。近づきはしなかった。三歩ぶんの距離を空けて、そこに座った。


 そして、歌い出した。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 外れていた。


 二節目で、もっと外れた。三節目の入りで、声が裏返った。


 窓は鳴らなかった。


 階下も、静かにならなかった。誰かが寝返りを打つ音がした。夜番の騎士が咳をした。宿の犬が、一度だけ吠えた。


 何も、起きなかった。


 私は、膝の上の彼を見た。


 ――肩の力が、抜けていた。


 汗が、引いていた。


 首の後ろに当てていた手が、床の上に落ちていた。


 眠ってはいなかった。目は開いていた。


 けれど、この人は、楽になっていた。


 リーゼは、四節目でまた音を外して、ちょっと恥ずかしそうに口を閉じた。


「へたで、すみません」


「……いや」


 ジルヴェスター様は、天井を見ていた。


「続けろ」


 命令の形をした、懇願だった。


 リーゼは、こくりと頷いて、また最初から歌い出した。


 私は、扉の枠にもたれて、その下手な歌を聞いていた。


 私の歌は、効く。


 効きすぎる。効きすぎるから、私は今夜、この人の隣で歌えなかった。


 あの子の歌は、効かない。


 何ひとつ、動かさない。動かさないから、あの子は、ずっとそこに座っていられる。


 ――隣に、いられる。


 母は、私を眠らせようとして歌っていたのだろうか。


 私は、そうは思わなかった。


 母は、揺り籠の脇で歌っていた。誰も眠らせていない。何も起こしていない。


 それでも私は、言葉より先に、その歌を覚えた。


 三度目に最初から歌い出したところで、この子は舟を漕ぎ始めた。


 自分の歌で、自分が眠くなったのだ。


 私は毛布を持ってきて、扉の内側に丸くなったその体にかけた。


 窓の外が、白み始めていた。


 私は、その寝顔を、しばらく見ていた。


 この子は、自分の歌で眠れる。それは、たぶん、いちばん幸せなことだ。


 朝、宿の下で人の声がした。


 メルツ様の使いが、貼り紙を持って走り回っていた。


 大会の組み分けが出たのだという。


 親たちが、階段の下に集まって、紙を覗き込んでいた。マルタが、指で番号を追っていた。


 その指が、いちばん下で止まった。


 百二十七番。


 その日の朝、大会に出ると届け出た子は、王都に百二十七人いた。

お読みいただき、ありがとうございました。


セレスは、歌えませんでした。


二節目で、宿の子どもたちが沈みます。城で七人が丸一日目を覚まさなかった、あの晩と同じです。あれから半年経っていて、原因は解けたはずでした。……解けていません。器は、まだ彼の血の中にいます。新月には寝返りを打ちます。そして彼女が歌えば、あれは彼女の歌を三百年前の力で押し広げます。


王都には、稽古で疲れ切った子どもが何百人もいます。


ですから彼女は、いちばん歌いたい夜に、歌えません。できることが何ひとつありません。第二部の器の話が、いま彼女の手を縛っています。


そこへ、下手な子が来ます。


三歩ぶんの距離を空けて、扉の内側にぺたりと座って、外れた歌を歌います。窓は鳴りません。階下も静かになりません。誰かが寝返りを打ち、騎士が咳をして、宿の犬が一度だけ吠えます。


何も起きません。


それなのに、あの人の肩から力が抜けています。


この物語の答えの、いちばん最初の入口が、ここです。


上手い歌は効きます。効きすぎます。効きすぎるから、隣にいられません。下手な歌は効きません。何ひとつ動かしません。動かさないから、ずっとそこに座っていられます。


お母様は、セレスを眠らせようとして歌っていたのでしょうか。揺り籠の脇で、毎晩。誰も眠らせず、何も起こさず。それでも娘は、言葉より先にその歌を覚えました。


「続けろ」――この人の甘さは、一生この形です。


朝になって、組み分けが貼り出されました。マルタの指が、いちばん下で止まります。


百二十七番。その日、大会に出ると届け出た子は、王都に百二十七人いました。


リーゼの三歩ぶんの距離に何か感じた方は、【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第73話「百二十七番、リーゼ」でお会いしましょう。

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