第71話: 間に合わなかった男が、二人
木の下から、足音が近づいてきた。
ジルヴェスター様が、石段の前で止まった。
私は立ち上がろうとした。彼が、掌でそれを止めた。
「メルツ殿」
「はい」
「間に合わなかった」
庭の子どもの声が、遠くで続いていた。
「詫びは言わん。詫びで戻る者はいない」
メルツ様は、彼を見上げていた。
「四年、私は自分を責めた。それから、責めるのをやめた。責めているあいだ、私は誰の役にも立たなかったからだ」
彼の声は、いつもの断定のままだった。
けれど、私には聞こえた。この人が、どれだけの重さを持ち上げてそこに立っているのかが。
「ひとつ、頼みがある」
「なんでしょう」
「十一人の名を、聞かせてもらえるか」
メルツ様の口が半分、開いた。
それから、閉じた。
彼はしばらく地面を見ていた。
やがて、顔を上げた。
「ヘルマ。カタリーナ。ヨスト。老ペーター。若ペーター」
彼は指を折らなかった。
「アンネリーゼ。ゲルト。トルステン。マリー。……エルンスト」
十人。
彼は、そこで止まった。
「もう一人は」
「……申し上げないと、昨日、申しました」
「そうか」
「ですが」
メルツ様は、深く息を吸った。
「ヨハンナと申します。十四でした」
その名だけ、言い方が違った。
残りの十人は、名簿を読み上げるように出てきた。この一人だけ、口の中で一度、形を確かめてから出てきた。
風が、庭を渡っていった。
ジルヴェスター様は、その十一の名を、一度も遮らずに聞いた。
そして、頷いた。
「覚えた」
それだけだった。
庭では、子どもが五人、まだ順番を待っていた。
こちらを見ていた。大人が三人、庭の隅で黙って向かい合っているのを、不思議そうに見ていた。
この子らは、十一人の名を知らない。知らないままでいい。
知らないままでいさせるために、この二人は、名を覚えたり、数を数えたりしている。
メルツ様が、目を伏せた。
その肩が一度、大きく上下した。
「閣下」
「なんだ」
「私は、あなたを憎めませんでした」
彼は手の甲で顔をこすった。
「あの冬、辺境へ救援に向かったのは、あなただけです。誰も向かっておりません。私も、向かっておりません。私は、逃げてきた者を受け取っただけです」
「それは、私が守るべき領だった」
「ええ。ですから、余計に憎めません」
メルツ様は、笑おうとして、失敗した。
「……憎めたら、楽でした」
庭の子どもの声が、また戻ってきていた。
水を汲む音がする。誰かが笑っている。歌っている子も、二人ほどいる。
この庭の音は、五年前には、この人の領に無かった音だ。
私は、二人の男を見ていた。
どちらも、間に合わなかった人だった。
片方は、自分を四年責めたあとで、責めるのをやめた。
もう片方は、責める相手を見つけられずに、数を数え始めた。
この二人が向かい合っているのを、私は、ただ見ていることしかできなかった。
宿へ戻る道で、ブリュンヒルデ様が私の隣に並んだ。
「奥方様。閣下は、あの十一の名を忘れません」
「はい」
「白雪の戦の死者は、四百人を超えます。閣下は、その名も全部覚えておいでです。四百二十二人ぶん」
私は、彼女の横顔を見た。
「毎年、冬の初めに紙へ書き出されます。一人ずつ。私は、その紙を焼く役目でございます」
「……焼く」
「残しておくと、閣下がまた読まれますので」
彼女の声は、いつもの硬さのままだった。
前を歩く背中が、少し先で立ち止まって、私たちを待っていた。
今日、その背中は、四百二十二に十一を足した。
その夜が、新月だった。
王都の宿の三階。子どもたちは二階と一階に分けて泊めていた。
ジルヴェスター様は、日が落ちる前から様子がおかしかった。
夕食に手をつけず、窓辺の椅子に座って、何度も首の後ろを押さえた。
「早いですね」
「ああ」
「まだ、月は」
「あれが、待たん」
彼が、そう言った直後だった。
彼の指先で、青白い光が弾けた。
窓硝子が、外側から叩かれるように鳴った。
窓の外で、灯りが幾つか消えた。宿の向かいの通りで、犬が長く吠えた。
彼は椅子から滑り落ちた。
卓の水差しが倒れた。硝子が割れる音が、階下から二度した。
私は駆け寄って、その頭を膝に受けた。額が、燃えるように熱かった。
廊下で、足音がした。
扉が開いて、メルツ様が飛び込んできた。
「奥方様! 下で硝子が――」
彼は、床の上の私たちを見て、言葉を切った。
それから、外套を脱いで、床に敷いた。何も訊かずに、彼はジルヴェスター様の頭の下へそれを差し入れた。
「灯りを落とします。窓は、私が押さえます」
「メルツ様」
「歌ってください」
彼は、窓枠に両手をかけて、体重をかけた。
「私は、聞いておりません。何も見ておりません。……どうぞ」
私は、彼の背中を見た。
この人は、五度、願書を書いた人だ。
五度断られて、十一人を看取った人だ。
その人が今、私に歌えと言っている。
私は、膝の上の額に手を当てた。
息を吸った。
「間に合わなかった」から始めました。詫びは言いません。詫びで戻る者はいないからです。
第二部の第28話で、この人は自分を赦しました。ですから今回は、赦しの話をやり直しません。四年責めて、責めるのをやめた。責めているあいだ、自分は誰の役にも立たなかった。それだけを言って、彼はその場に立ちます。
そこから、彼はいちばん重いものを持ち上げます。
「十一人の名を、聞かせてもらえるか」
歌劇公は指を折りませんでした。折らなくても言えるからです。十人まで言って止まり、それから最後の一人の名を、自分から出しました。ヨハンナ、十四歳。
公爵様は一度も遮らず、最後に「覚えた」とだけ言いました。これが、この人にできる精一杯の償いの形でした。
歌劇公のほうは、いちばん苦しいことを言います。
「憎めたら、楽でした」
あの冬、辺境へ向かったのは公爵ただ一人でした。誰も向かっていません。彼自身も向かっていません。だから憎めない。憎めないから、責める相手のかわりに数を数えるようになった。
間に合わなかった男が、二人。片方は責めるのをやめ、もう片方は数え始めました。セレスには、見ていることしかできません。
新月の夜が早く来ました。窓を押さえたのは、歌劇公でした。何も訊かず、外套を脱いで床に敷き、「私は、聞いておりません。何も見ておりません」と言って、背中を向けます。
五度願書を書いて、五度断られて、十一人を看取った人が、いま歌えと言っています。
次回、第72話「下手な歌だけが、あの人を楽にした」でお会いしましょう。




