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第70話: 二千人を眠らせるには、歌い手が何人要りますか

 翌日の昼、私は歌劇公の館を訪ねた。


 メルツ様は、庭の井戸端にいた。袖を捲って、桶に水を汲んでいた。子どもが五人ほど、順番を待って並んでいた。


 私を見ると、彼は桶を若い教師に渡して、こちらへ歩いてきた。


「奥方様。昨日は、失礼を」


「いえ」


「私は何か、まずいことを申しましたでしょうか。ずっと考えておりました。夜中に三度起きました」


 この人は、正直だった。


 私は、頷いた。


「メルツ様。ひとつ、お尋ねしてよろしいですか」


「なんなりと」


「なぜ、そんなに急がれるのですか」


 彼の手が、止まった。


 布で指を拭いていた手が、途中で止まった。


 それから彼は、庭の隅の石段を指した。


「掛けましょう」


 石段は、二人が並んで座るには狭かった。


 ジルヴェスター様は、少し離れた木の下に立っていた。近づいてこなかった。近づかないという形で、そこにいた。


「奥方様。数を、申し上げます」


 メルツ様は、膝の上で指を組んだ。


「この国の眠れぬ者は、二千人です。これは聖歌庁の最後の集計で、当時のものですから、今はもう少し多いはずです」


「はい」


「歌い手が一人で、一晩に何人を眠らせられると思われます」


 私は、答えを知っていた。


「……四十人」


「四十一人目は、絶対に眠りません」


 彼は、私の顔を見なかった。


「二千を四十で割ると、五十です。一人の歌い手が、五十晩かけて、ようやく国じゅうを一巡します。そのあいだに、最初に眠らせた者は、また眠れなくなっております」


「はい」


「ですから、要るのは百人です」


 百人。


 彼はその数を、一度も声に迷わずに言った。


「百人おれば、二十日で一巡できます。二十日なら、追いつきます。……私が計算したのは、それだけのことです」


 庭で、子どもが水を飲んでいた。


「五年前の冬のことを、覚えておいでですか」


 彼は、突然そう言った。


「白雪の戦」


「はい。辺境が吹雪と魔獣にやられた、あの冬です」


 木の下で、ジルヴェスター様が動かなくなった。


「私の領は、あの辺境の西の隣です」


 私は、息を止めた。


「逃げてきた者を、二百人ほど引き受けました。厩を空けて、教会を開けて、麦を出しました。……そこまでは、私にもできたのです」


 彼は、指を組み直した。


「春になって、そのうちの十九人が、眠れなくなりました」


 十九人。


「目を閉じると吹雪が見える、と申しました。子どもの声が聞こえる、とも。冬のあいだ、あの者たちは、雪の下から声を掘り出す仕事をしておりましたので」


 私は、掌が冷たくなるのを感じた。


「私は、王都へ願い出ました。歌い手を、一人でよいから寄越してほしいと。願書は五度、書きました」


「……お返事は」


「五度とも、同じでした」


 彼は、初めて私のほうを向いた。


 笑い皺が、動いていなかった。


「――登録された歌い手は、王都の要人にしか出せません」


 庭の音が、遠くなった。


「三年のうちに、十一人が死にました」


 私は、名を聞かなかった。


 聞かなくても、この人が全員の名を言えることは、その言い方でわかった。


「ヘルマという女がおりました。三十六でした」


 彼は、勝手に喋り出した。喋り出してから、自分で驚いた顔をした。


「あの女は、自分で歌っておりました。眠れないので、自分で自分に子守唄を歌うのです。教会の隅で、朝まで。ひどい声でした」


 彼は、そこで笑おうとした。


「……あれで眠れるものかと、私は思っておりました」


 彼は、そこで一度、言葉を切った。


「衰弱が七人。凍えたのが三人。……あとの一人は、申し上げません」


 私は、何も言えなかった。


「奥方様。私は、あの五度の願書を、今も持っております」


 彼は立ち上がって、袴の埃を払った。


「あの制度が消えたと聞いた日、私は泣きました。本当に、みっともなく泣きました。……そして、翌朝から、数を数え始めたのです」


 私は、五度の願書のことを考えていた。


 同じ文面を五度書くというのは、どういう作業だろう。一度目は必死に書く。二度目は言葉を選び直す。三度目には、もう祈りに近い。四度目と五度目は、たぶん何も考えずに手が動く。


 彼は庭を見渡した。


 五十人の子どもが、水を飲み、走り、また列に戻っていく。


「二千人。四十人。五十晩。百人」


 彼の声は、静かだった。


「私は、間に合わなかった側の人間です。間に合わなかった者は、次は間に合わせるために、数を数えるようになります」


 正しかった。


 この人は、また、正しかった。


 そして私は、初めてはっきりと、その正しさの底が見えた気がした。


 この人は、十一人の名前を覚えている。


 覚えているから、百人という数字が出る。


 覚えているから、その百人が誰なのかを、考えずに済ませてしまう。


 メルツ様が、ふと、木の下へ目を向けた。


 そして、思い出したように言った。


「間に合わなかったと言えば、閣下」


 彼に、悪意は無かった。


 悪意が無いのが、いちばん悪かった。


「……あなたも、でしたな」

イゾルデが塔で残した問い――「なぜ、それほど急ぐのでしょう」を、セレスがそのまま本人に持っていきました。


歌劇公の答えは、数字から始まります。眠れぬ者が二千人。歌い手一人が一晩に四十人。四十一人目は絶対に眠らない。二千を四十で割ると五十晩。一巡するあいだに最初の人はまた眠れなくなる。だから百人要る。百人なら二十日で追いつく。


一度も声に迷わずに言えるのは、この人が何百回も同じ計算をしてきたからです。


なぜ数を数える人間になったのかも、彼は話します。


彼の領は、辺境の西の隣でした。白雪の戦の冬、逃げてきた二百人を引き受けました。厩を空け、教会を開け、麦を出しました。そこまでは彼にもできたのです。


春に、十九人が眠れなくなりました。目を閉じると吹雪が見える。子どもの声が聞こえる。……冬のあいだ、雪の下から声を掘り出す仕事をしていた人たちです。


願書を五度書いて、五度とも同じ返事が来ました。


「登録された歌い手は、王都の要人にしか出せません」


三年で十一人が死にました。衰弱が七人、凍えたのが三人。あとの一人については、彼は言いませんでした。


この人は十一人の名前を覚えています。覚えているから百という数字が出ます。そして――覚えているから、その百人が誰なのかを考えずに済ませてしまう。


最後の一言に、悪意はありません。悪意が無いのが、いちばん悪いのです。


木の下に立っていた人は、あの冬、間に合いませんでした。逃げた二百人は、あの人が救えなかった人たちです。


十九人と十一人の数字が刺さった方は、【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第71話「間に合わなかった男が、二人」でお会いしましょう。

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