第69話: 塔の歌姫は、記録の言葉でしか話せない
王都の北に、古い塔がある。
番兵が二人、扉の前に立っていた。窓には格子が入っている。殿下の書付を見せると、番兵は何も言わずに錠を開けた。
ジルヴェスター様は、扉の外に残った。
塔は王家の預かりで、公爵といえども勝手には入れない。番兵に一言だけ告げて、この人は石の壁にもたれた。
「待っている」
「長くなるかもしれません」
「構わん」
彼は腕を組んで、目を閉じた。
「私は、あの女に二晩眠らされた。その二晩を、私は何ひとつ覚えていない」
私は、足を止めた。
「眠ったのに、何も残らなかった。……あれと、今のあれが同じ人間かどうか。お前が見てこい」
螺旋の階段を上がりながら、私は自分の足音を数えていた。
半年ぶりだった。
部屋は、思っていたより明るかった。
窓が東を向いている。寝台がひとつ。卓がひとつ。壁際に椅子が二脚。その一脚に、白髪の老人が腰かけていた。
「おお、歌姫殿」
グスタフ様が、膝を叩いて立ち上がった。
「よう来なさった。ここは退屈でな。番兵まで欠伸をしとる」
そして、窓辺のほうへ顎をしゃくった。
イゾルデ様が、そこに立っていた。
髪は短くなっていた。着ているものは、粗い布の一枚きりだった。
私を見ると、彼女は静かに頭を下げた。
「セレスティア様」
「……お久しゅうございます」
「はい。百七十九日ぶりでございます」
数えていた。
毎日、一日ずつ、数えていたのだ。
私は、王都で見たものを話した。
広場という広場で、子どもが同じ歌を歌っていること。三百人の斉唱で誰も眠らなかったこと。喉を潰した女の子がいたこと。そして初等の稽古の、あの一句のこと。
――まず、自分の歌を忘れなさい。器は空でなければ、入りません。
話しているあいだ、イゾルデ様は一度も動かなかった。
窓の格子に手をかけたまま、外を見ていた。
私が黙ると、彼女は言った。
「対象は六名。全員が初日。入眠の記録はございません」
「イゾルデ様」
「掌を握らせ、両手で包む所作は、導入の第三段でございます。第一段が呼吸、第二段が姿勢、第三段が預かり。第四段で発声に入ります」
平らな声だった。
「所要は、およそ十日。十日を過ぎますと、自分の歌を思い出す者はおりません。逸脱の記録は、二十年で四件でございます」
私は、椅子の背を掴んだ。
「イゾルデ様。それは、あなたが」
「はい」
彼女は、格子から手を離した。
「わたくしが、受けた順序でございます」
それだけだった。
その先が、無かった。
私は、待った。
ひどい、とも、苦しかった、とも、あの子らを助けてほしい、とも、この人は言わなかった。
言わないのではない。
言葉が、無いのだ。
二十年、この人が与えられた語彙は、対象と、入眠と、深度と、逸脱だけだった。自分の身に起きたことを、良いとも悪いとも呼ぶ言葉を、誰も渡さなかった。
だから彼女は、正確に報告する。
自分が壊された手順を、第一段から順に。
「歌姫殿」
グスタフ様が、椅子に座ったまま言った。
「わしは、難しいことはわからん」
老人は、膝の上で手を組んでいた。
「じゃがな。わしにはわかる」
「はい」
「あの子らは、もう、下手に歌えん」
私は、その一言で息が止まった。
下手に歌えない。
外れることも、裏返ることも、途中でやめることも、許されていない。
「歌ってみるかね」
グスタフ様が、窓辺へ声をかけた。
イゾルデ様が、こちらを向いた。
「本日の課題は、まだ半ばでございます」
「よいよい。歌姫殿に聞かせておやり」
彼女は、少し息を吸った。
そして、歌った。
「――ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
私は、目を見開いた。
外れていた。
二節目で音が下へずれた。三節目の入りが、遅れた。
王国でいちばん美しい声を持つ人が、はっきりと、下手に歌っていた。
「なあ」
グスタフ様が、得意そうに鼻を鳴らした。
「三月かかったぞ。この娘、外すのがえらい下手でな」
私は、笑おうとして、うまくいかなかった。
三月。
誰かの中身を空にするのに十日。
外れることを思い出すのに、三月。
私は、初等の六人のことを思った。
「イゾルデ様。もし、あの子らに何か言えるとしたら」
彼女は、長いあいだ黙っていた。
「……申し上げられることが、ございません」
「ひとつも」
「わたくしには、資格がございません。あの子らを、あの部屋へ送り出した者と、同じ言葉で育っております」
「資格の話をしとるんじゃない」
グスタフ様が、膝を叩いた。
「歌の話をしとる。おまえさん、今日、外したろうが」
イゾルデ様が、老人を見た。
その目が、ほんの少しだけ、動いた。
帰り際、階段の降り口で、イゾルデ様が私を呼び止めた。
「セレスティア様」
「はい」
彼女は、床の一点を見ていた。
それから、こう言った。
「ひとつだけ、お聞きしてよろしいですか」
私は頷いた。
この人が、自分から人に何かを尋ねるのを、私は初めて見た。
「その方は」
彼女は、言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「……なぜ、それほど急ぐのでしょう」
お読みいただき、ありがとうございました。第八章「歌劇公の都」に入ります。
イゾルデの再登場です。塔にいます。格子も番兵もそのままです。百七十九日、彼女は一日ずつ数えていました。
この回でいちばん書きたかったのは、彼女が「ひどい」と言えない、というところでした。
セレスが稽古場のことを話すと、彼女は段を追って正確に答えます。書式が、報告書のそれです。そして最後に「わたくしが、受けた順序でございます」と言って、そこで終わります。
苦しかったとも、助けてやってくれとも言いません。言わないのではなく、言葉が無いのです。二十年で与えられた語彙は、対象と入眠と深度と逸脱だけでした。自分の身に起きたことを良いとも悪いとも呼ぶ言葉を、誰も彼女に渡しませんでした。
ですから彼女は、自分が壊された手順を、第一段から順に、正確に報告します。
代わりに言ってくれるのが、グスタフ様です。
「あの子らは、もう、下手に歌えん」
難しいことはわからん、と前置きしてから、この人はいちばん大事なことを言います。上手いか下手かの話ではありません。選べるかどうかの話です。
それから、王国でいちばん美しい声を持つ娘が、下手に歌ってみせます。三月かかったそうです。誰かの中身を空にするのに十日、外れることを思い出すのに三月。
最後に、彼女が生まれて初めて、自分から人に何かを尋ねます。
「……なぜ、それほど急ぐのでしょう」
イゾルデの下手な歌に胸が詰まった方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第70話「二千人を眠らせるには、歌い手が何人要りますか」でお会いしましょう。




