第68話: 「まず、自分の歌を忘れなさい」
私が駆け寄るより先に、男が一人、その子の前に膝をついていた。
五十がらみの、痩せた男だった。
「顎を上げなさい。息は鼻から」
男は、子どもの背中を、掌でゆっくり撫でた。
「そう。吐かなくていい。吸うだけ」
震えが、収まっていった。
男は立ち上がって、脇にいた若い教師に、短く言った。
「三日、休ませます。水と、蜂蜜。それから、三日は喋らせないこと。母親に、書いて渡しなさい」
「はい」
「泣かせないように。泣くのがいちばん悪い」
手際が、良すぎた。
この人は、この処置を、何度もしている。
「奥方様」
背後で、メルツ様の声がした。
「ご紹介が遅れました。稽古頭のホルストです。三つの稽古場を、全部この男が見ております」
男が、こちらを向いて頭を下げた。
「ホルストと申します」
顔に、悪意は無かった。
誇りが、あった。
夕の部が始まった。
私は、いちばん奥の一室へ通された。
そこは、初等の稽古だという。
まだ小さい子が、二十人ほど。床に膝を抱えて座っていた。今日が初日の子が、六人いるらしい。
ホルストが、その前に立った。
彼は、いきなり歌わせなかった。
譜も配らなかった。
「よく来ました」
声が、穏やかだった。
「これから、上手になります。うちに来た子は、全員が上手になります。ですから、心配は要りません」
子どもが、こくこくと頷いた。
「ひとつだけ、先にすることがあります」
彼は床に膝をついて、子どもの目の高さに下りた。
「まず、自分の歌を忘れなさい」
私は、扉の枠を掴んだ。
「器は空でなければ、入りません」
部屋の空気が、揺れなかった。
誰も、おかしいと思わなかった。
子どもたちは、素直な顔で頷いた。奥に座っていた母親の一人が、感心したように、隣の母親と目を見交わした。
私は自分の指が冷たくなっていくのを感じた。
刻印は、無い。
鎖も、番兵も、名簿も、支度金の帳簿も、この部屋には無い。
あるのは、床に膝をついて子どもと同じ高さまで下り、優しい声で喋る男だけだった。
――器は、空でなければ、入りません。
その言い方を、私は知らない。
知らないのに、知っていた。
二十四になるまで、望みを一度も持てなかった人を、私は知っている。
四つの歳から二十年、記録の言葉でしか喋れなくなった人を、知っている。
あの人の中身は、誰かが最初に、空にしたのだ。
ホルストは、六人に手を出させた。
「掌を上に。そう。そこに、いちばん好きな歌を乗せてごらん」
子どもたちが真面目な顔で掌を見た。
「乗ったかね」
「はい」
「では閉じて。ぎゅっと」
六つの手が握られた。
「それは、あなたの家の歌です。大事な歌です。おうちへ帰る日まで、私が預かります」
彼は六人の握った手を、順番に両手で包んでいった。
「預かるだけです。捨てるのではありません」
子どもたちの肩から力が抜けた。
母親の一人が涙ぐんでいた。
私はその場で吐きそうになった。
捨てろとは言わない。
預かると言う。
――そして、返す日を決めていない。
「――ホルスト」
私の声は、自分でも驚くほど平らだった。
「はい」
「あなたは、どちらで教えておいででしたか」
「聖歌庁でございます」
彼は隠さなかった。隠す理由を持っていなかった。
「稽古頭を、二十二年」
二十二年。
「では」
私は、扉の枠から手を離した。
「イゾルデを、教えましたか」
部屋の隅で、若い教師が顔を上げた。
ホルストがゆっくりと立ち上がった。
そして、目を細めた。
――笑った。
「はい」
誇らしそうだった。
「私の教室の、いちばんの出来でした」
私の隣で、空気が動いた。
ジルヴェスター様が、一歩、前へ出ていた。
私はその袖を掴んだ。掴まなければ、この人は何かをしていた。
「閣下?」
メルツ様が、怪訝な顔をした。
この人は、何も、わかっていなかった。
「メルツ様」
「はい」
「この教え方を、どなたから買われました」
「買った、というのは」
「ホルストを、どこでお雇いになりましたか」
彼は、少し困ったように笑った。
困るところが、間違っていた。
「王都の、職を失った者の名簿からです。……いえ、名簿というのは、聖歌庁のものではありません。庁が停まったあと、職を失った者を、王都の役所が書き出したのです。私は、そこから声をかけました」
「聖歌庁の者と、ご承知で」
「もちろんです」
彼は、当たり前のことを訊かれた顔をした。
「奥方様。制度は消えました。それは正しいことです。……ですが、あの者たちの職までは消えません。二十二年、子どもに歌を教えてきた男が、王都に一人おりました。私は、その腕を買いました」
彼は、稽古場のほうへ手を向けた。
「三月で、三百人が揃うようになりました。私には、できません。あれができるのは、あの男だけです」
正しかった。
この人の言うことは、また、正しかった。
私は、初等の部屋を振り返った。
ホルストが、また床に膝をついていた。
六人の新しい子が、彼を見上げていた。
その中の一人が、まだ小さい手で、自分の胸のあたりを、ぎゅっと握っていた。
何かを、押さえるように。
あるいは、渡さないように。
「奥方様?」
メルツ様が、私の顔を覗き込んだ。
「……どうか、なさいましたか」
第七章の締めくくりです。
喉を押さえて動けなくなった女の子に、最初に膝をついたのは、稽古頭のホルストでした。顎を上げさせ、鼻から吸わせ、三日休ませ、蜂蜜と水を用意させ、三日喋らせるなと母親に書いて渡させる。泣かせるな、泣くのがいちばん悪い、とも言います。
手際が良すぎるのです。この処置を、この人は何百回もしています。
顔に悪意はありません。あるのは誇りです。
初等の稽古で、彼は最初に歌わせません。譜も配りません。床に膝をついて、子どもと同じ目の高さまで下りて、穏やかな声でこう言います。
「まず、自分の歌を忘れなさい。器は空でなければ、入りません」
部屋の空気は、揺れません。子どもは素直に頷き、後ろで見ていた母親は感心して隣と目を見交わします。刻印はありません。鎖も、番兵も、名簿も、この部屋にはありません。あるのは、優しい声で喋る男だけです。
セレスは、その言い方を知りませんでした。知らないのに、知っていました。
二十四になるまで望みを一度も持てなかった人を、彼女は知っています。四つの歳から二十年、記録の言葉でしか喋れなくなった人を、知っています。
「イゾルデを、教えましたか」
「はい。私の教室の、いちばんの出来でした」
――誇らしそうに、笑うのです。
歌劇公のほうは、何ひとつわかっていません。彼にしてみれば、二十二年の腕を持つ教師を、失職者の名簿から拾って雇っただけです。制度は消えた。それは正しい。だが、あの者たちの職までは消えない。三月で三百人が揃うようになった。あれができるのはあの男だけだ。
……正しいのです。今回も。
第二部で、私たちは建物を壊しました。壊せなかったものが、今日も床に膝をついて、六人の新しい子に、優しく喋りかけています。
最後の一行に、新しく来た子の手を書きました。あの仕草が何なのかは、書いた私にも決められません。次の回で、二十年それを握れなかった人に会いに行きます。
次回から第八章「歌劇公の都」に入ります。
「いちばんの出来でした」で息が止まった方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第69話「塔の歌姫は、記録の言葉でしか話せない」でお会いしましょう。




