第67話: 母の子守唄が、教科書になっていた
私は、羽根ペンを取らなかった。
「メルツ様。先に、稽古場を見せていただけますか」
彼は、意外そうな顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「もちろんです。むしろ、そう仰っていただけて助かります。……刷り物より、あそこを見ていただくほうが早い」
東の稽古場は、もとは穀物の取引所だったという。
天井が高い。窓が大きい。壁は石。
声が、よく響く場所だった。
中に、三百人ほどいた。
私は、扉のところで立ち止まった。
子どもたちが、揃っていた。
肩の高さが。息を吸う瞬間が。口の開き方が。
三百人が、同じところで胸を膨らませ、同じところで音を切った。
「――ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
美しかった。
それは、認めなければいけないことだった。
中庭の九人が好き勝手に歌っていた、あの重ならない声とは、比べものにならなかった。石の壁が響かせる三百人の斉唱は、天井から降ってくるようで、私は一度、目を閉じた。
半音高い三節目も、揃っているというだけで、正しく聞こえた。
「いかがです」
メルツ様が、小声で言った。
「三月です。三月で、ここまで来ました」
私は、答えられなかった。
隣で、ジルヴェスター様が、扉の枠に肩を預けていた。
目を開けていた。
私は、その横顔を見た。
この人は、母の歌で眠る。私が歌えば、三百も数えないうちに、瞼が重くなる人だ。血の底に三百年前の器を抱えていて、私の歌に、いちばん深く応える人だ。
その人が、三百人の子守唄の中で、平然と立っていた。
「……ジルヴェスター様」
「なんだ」
「眠く、ございませんか」
彼は、少し考えるように、天井を見た。
「いや」
それから、私を見た。
「まったく」
私は稽古場の中を、もう一度見渡した。
誰も、眠っていなかった。
教師も、親も、扉の脇の下働きも。三百人が母の歌を三月かけて仕込まれて、この部屋には、寝息がひとつも無かった。
昼を過ぎて、稽古場の隅にエルフリーデ様が現れた。
殿下は、書簡の束を抱えていた。
「セレスティア。……ひどい顔をしているでしょう」
「いえ」
「嘘がお上手になりましたね」
殿下は、束を長椅子に置いた。紐が切れて、封書が石の床に散った。私は屈んで拾った。差出人の地名が、どれも違った。
「今週で、三百二十六通です」
殿下は、拾うのを手伝わなかった。手伝えないほど、疲れていた。
「うちの子が歌えるようだ。どうすればいいのか。誰に習わせればいいのか。……私は、全部、同じ返事を書いております」
「なんと」
「王都へおいでなさい、と」
殿下は、稽古場のほうへ目をやった。
「王都には、歌劇公がおります、と」
三百人の斉唱が、天井から降っていた。
「セレスティア。私は、あの方を止められません。止める理由が書けないと、前に申しました。今は、それどころではないのです」
殿下の声が、掠れた。
「私は、あの方に、感謝しております」
私は、拾った封書を束に戻した。
夕方の休みで、稽古が切れた。
子どもたちが水を飲みに散った。
私は、そのあいだの稽古場を歩いた。
静かになると、この部屋の広さがよくわかった。
窓際で、痩せた男の子が、ひとりで水を飲んでいた。
「上手だったわ」
私が言うと、その子は、こくりと頭を下げた。
「あなたは、その歌が好き?」
子どもは、こちらを見た。
それから、少し困った顔で、こう言った。
「わかりません」
「わからない」
「三節目が、いちばん難しいので」
私は、その答えを聞いて、しばらく動けなかった。
好きかと訊かれて、難しいと答える。
この子は、たぶん、嘘をついていない。
この子の中で、その二つは、もう同じ引き出しに入っている。
私はその子の隣に座った。
膝を抱えて、石の床に。
それから小さな声で歌った。誰にも聞こえないくらいの声で、三節目だけを。母の高さで。
子どもは驚いた顔をした。
「それ、間違ってます」
「そうね」
「先生に、直されます」
私は頷いた。
この部屋では、私の歌が間違いだった。
私は、九人を思い出した。
中庭で、揃わずに、好き勝手に、下手に歌っていた九人。
あの子たちは誰も、歌の難しさの話をしなかった。
稽古場の壁際で、ジルヴェスター様が足を止めた。
「セレスティア」
「はい」
「あれは、歌か」
私は答えられなかった。
彼はそれ以上訊かなかった。壁に肩を預けて、水を飲む子どもたちを見ていた。
この人は、この部屋に入ってから一度も欠伸をしていない。
去年の冬、城の廊下で私が鼻歌をこぼしただけで、この人は柱に手をついて立ち止まった。あのとき私は慌てて口を押さえた。今日は、いくら聞いても何も起きない。
三百人が、母の歌を歌っているのに。
休みの終わりの鐘が鳴った。
子どもたちが、また列に戻っていく。
その流れの、いちばん後ろ。
窓際の壁に手をついて、ひとりの女の子が、動かなかった。
両手で、喉を押さえていた。
肩が、細かく震えていた。
私は、床を蹴った。
セレスは羽根ペンを取りませんでした。代わりに、稽古場を見せてくれと言いました。
三百人の斉唱です。肩の高さが揃い、息を吸う場所が揃い、口の開き方まで揃う。石の壁がよく響く。……美しいのです。ここは、美しいと書かなければ嘘になると思って書きました。中庭の九人が好き勝手に歌っていた、あの重ならない声とは比べものになりません。
この回の計器は、公爵様です。
母の歌で眠る人です。血の底に三百年前の器を抱えていて、セレスの歌にいちばん深く応える人です。その人が、三百人の子守唄の中で、扉の枠に肩を預けて、平然と目を開けていました。
「眠く、ございませんか」
「いや。……まったく」
歌の形は、そこにあります。音も、拍も、息継ぎも。それでも、この部屋には寝息がひとつもありません。
王女殿下は、もう止める側にいません。週に三百二十六通の手紙に「王都へおいでなさい、王都には歌劇公がおります」と書き続けています。そして感謝している、と言いました。この人を追い詰めているのは、私たち自身が壊した制度の跡地です。
いちばん書きたかったのは、水を飲んでいた男の子です。「その歌が好き?」と訊かれて、「わかりません。三節目が、いちばん難しいので」と答えます。
好きかと難しいかが、もう同じ引き出しに入っている。
中庭の九人は、誰も、歌の難しさの話をしませんでした。
休みの終わりに、ひとりの女の子が喉を押さえて動けなくなっています。刻印はありません。この稽古場に、印を押された子は一人もいません。
三百人の中で誰も眠らなかったことに、ぞっとした方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第68話「『まず、自分の歌を忘れなさい』」でお会いしましょう。




