第66話: 歌劇公は、私の手を取って微笑んだ
歌劇公の館は、王都の東の外れにあった。
門をくぐって、私は面食らった。
庭に、子どもが五十人ほどいた。
建物のほうは、がらんとしていた。広間の壁に、掛物の跡だけが四角く残っている。絨毯もない。石の床に、白墨の粉が散っていた。
「売りました」
背後から声がして、私は振り向いた。
「掛物も、絨毯も、馬車も。ぜんぶ売って、宿代に替えました。子どもは食べますので」
男は、袖を捲っていた。
指先が、白墨で汚れていた。
三十代の後半だろうか。背は高くない。目尻に笑い皺がある。貴族の館の主というより、忙しい商家の番頭のような立ち方をしていた。
「テオドール・フォン・メルツと申します。歌劇公と呼ばれておりますが、あれは私が名乗ったのではありません。王都の者が勝手に」
彼は私の前まで来て、深く頭を下げた。
それから、両手で私の手を取った。
「奥方様。よくおいでくださいました。……本当に。よく」
力が、強かった。
「閣下も。遠路、ご無礼を」
ジルヴェスター様は、何も言わずに、わずかに顎を引いた。
私の手は、まだ握られたままだった。
解いたのは、メルツ様のほうだった。
その一拍のあいだ、私の左隣で、石の床が、一度だけ鳴った。
庭で、子どもたちが歌っていた。
メルツ様は、私たちを庭へ案内しながら、次々に名前を呼んだ。
「アンナ、水を飲め。ペーター、走るな。ミナ、昨日より低い。喉が渇いてる」
「……全員の名を、覚えておいでですか」
「二百四十六人までは」
彼は、事もなげに言った。
「一度聞けば覚えます。子どもの名を間違える大人を、私は信用しませんので」
私は、九人の子を連れてきた。
メルツ様は、その場で九人の名を聞き、九人とも呼び返した。マルタが、感激して涙ぐんでいた。
リーゼだけが、彼の顔を、じっと見上げていた。
メルツ様は、その視線に気づいて屈んだ。
「歌ってごらん」
リーゼは息を吸った。
庭の五十人が、ちょうど休みに入ったところだった。静かだった。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
二節目で外れた。三節目に入る前に喉が引きつった。
誰も笑わなかった。誰も眠らなかった。
メルツ様は立ち上がって、埃を払うように膝を叩いた。
「うん。初等からだな」
その言い方に、迷いが無かった。
この人はたぶん一日に何十回もこれをしている。子どもの歌を聞いて、初等か中等か上等かを決める。それだけの仕事だ。
私はその「うん」を、しばらく飲み込めなかった。
館の中の卓で、彼は私が何も訊かないうちに帳簿を出した。
「どうぞ。歳費、寄進、売却、支出。全部あります」
「……よろしいのですか」
「よろしいも何も、これを見せずに人の子を預かれますか」
彼は、頁を繰った。
「支度金は一家に金貨十枚。受け取りは求めません。宿代、食費、旅費はこちら持ち。稽古場は三つ。教師が十一人。私の取り分は、ゼロです」
「ゼロ」
「私は、もう十分に持っておりましたので」
嘘には、聞こえなかった。
壁の掛物の跡が、四角く白いままだった。
「奥方様。私が何をしているか、はっきり申し上げます」
彼は、帳簿を閉じた。
「聖歌庁は、歌を独占しました。三十七人だけを名簿に載せ、その三十七人を王都に閉じ込めて、鍵をかけました。国じゅうの残りの子は、歌えても、歌えないことになっていた」
「はい」
「私は、配ります」
彼の目に、初めて、熱が入った。
「歌える子がいれば、金を出す。教師をつける。場を作る。誰も囲いません。名簿も作りません。喉に印など、押しません。……あれは、押した者が地獄へ落ちるべき所業です」
声が、大きくなった。
庭の子どもが何人か、こちらを振り向いた。
彼は、はっとしたように口を閉じ、それから、ばつが悪そうに笑った。
「失礼。……この話になると、私は、少し」
「メルツ様」
「はい」
「聖歌庁に、何かおありでしたか」
彼の笑い皺が一瞬、動かなくなった。
「昔、一度」
そこで、彼は言葉を切った。
「――断られたことがあります」
それだけだった。
彼はすぐに立ち上がって、白墨で汚れた手を布で拭いた。
「奥方様。ひとつ、お願いがございます」
「はい」
「これを」
卓に置かれたのは、薄い冊子だった。
安い紙に、粗い刷りで、五線と音符が並んでいる。
表には、こうあった。
――辺境の子守唄 初等 第一
私は、頁をめくった。
母の歌だった。
行商人の記憶を、誰かが書き取ったのだろう。三節目の入りが、半音、高い。四節目の終わりの伸ばしが、一拍、短い。
――違う。
私の指が、勝手にその音符の上で止まった。
「間違っておりますでしょう」
メルツ様が、私の手元を覗き込んだ。
「行商人の口伝ですから、当然です。それを、王都の子が二千部、正しいと思って歌っております」
彼は、卓の向こうから、羽根ペンを差し出した。
「奥方様。直していただけませんか」
私は、その羽根ペンを見た。
「正しい形で、刷り直します。あなたのお母上の歌を、間違ったまま国じゅうに配るのは、私には、耐えられません」
正しい形で。
私は、その言葉の重さを、指先で量っていた。
庭で、五十人が、半音高い三節目を歌っていた。
――ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。
私の手が、羽根ペンへ、伸びかけた。
第三部の主敵、歌劇公テオドール・フォン・メルツの登場回です。
……敵、と書きましたが、たぶん今回、皆様はこの人を嫌いになれなかったと思います。私も書きながら好きになってしまいました。
掛物も絨毯も馬車も売って宿代に替えている。取り分はゼロ。訊かれる前に帳簿を出す。子どもの名を二百四十六人まで覚えていて、間違える大人は信用しない、と言う。喉に印を押した者は地獄へ落ちるべきだ、とも言います。
セレスが第二部で戦った相手は、熱のない人でした。ラインハルト卿は声を荒げず、正論と手続きだけで人を削る男でした。メルツはその正反対です。早口で、熱があって、庭の子に水を飲めと怒鳴る人です。
その人が、聖歌庁の話になると、少しだけ制御を失います。
「昔、一度――断られたことがあります」
彼はそこで話を切りました。この一行だけ、覚えておいてください。
最後に、お願いがひとつ。行商人の口伝で刷られた教科書は、三節目の入りが半音高く、四節目の伸ばしが一拍短い。二千部が、間違ったまま国じゅうに配られている。直してください、と彼は言います。正しい形で刷り直します、と。
セレスの指が、勝手に音符の上で止まりました。手が、羽根ペンへ伸びかけました。
――四話前に、彼女が何をしてリーゼを黙らせたか、思い出していただけると嬉しいです。
メルツを好きになってしまった方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第67話「母の子守唄が、教科書になっていた」でお会いしましょう。




