第65話: 「あの男は、お前を看板にする」
招待状を執務室へ持っていくと、ジルヴェスター様は、二度読んだ。
一度目は、いつもの速さで。
二度目は、指で行をなぞりながら。
それから、紙を卓に伏せた。
「断れ」
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
「あの男は、お前を看板にする」
彼は、椅子の背に体を預けた。
「辺境の奥方が並んだ。だから、あそこで選ばれた子は本物だ。――そう読ませるために、お前の名が要る。歌など、聞かせる必要もない」
私は、伏せられた紙を見た。
ヨナスも、同じことを言った。言葉が、どう聞こえるかを、数えるのが仕事でした、と。
この二人は、たぶん、同じ本を読んでいる。
「ジルヴェスター様」
「なんだ」
「私は、答えを持っておりません」
彼が、こちらを見た。
「殿下に問われて、二月です。城に子どもが九人来て、私は、一人の音を三日で三か所直して、その子を黙らせました」
私は、卓に手をついた。
「城にいて、わかることは、もう、ありません」
彼は、しばらく黙っていた。
窓の外で、中庭の九人が、また好き勝手に歌い出していた。揃わない声が、幾つも重なって、風に混じった。
「……行くなら」
彼は、天井を見上げた。
「私も行く」
「いけません」
声が、思ったより強く出た。
「次の新月は、旅の途中です」
「知っている」
「王都では、去年、あなたは倒れました」
「知っている」
彼は、まだ天井を見ていた。
この人は、私と目を合わせずに大事なことを言う癖が、四年経っても直らない。
「セレスティア」
「はい」
「お前が居ない夜を、私が、越えられると思うか」
私は返す言葉を失った。
彼はようやく顔を下ろした。暗い金の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「これは命令だ」
命令の形をした、懇願だった。
旅の支度に三日かかった。
ブリュンヒルデ様は反対しなかった。反対する代わりに、随行の騎士を四人から八人に増やし、道中の宿を二軒から四軒に増やし、私に薬包と毛布の目録を渡した。
「奥方様。閣下は、道中で無理をなさいます」
「はい」
「無理をなさっていない、という顔で、無理をなさいます」
「……よく、ご存じですね」
「十年、見ております」
城に残る者と行く者を分けた。
子どもたちは、九人とも王都へ行くことになった。招待状が、九通あったからだ。親も一緒に行く。行かない理由が、誰にも無かった。
出発の朝、中庭で、ルルが騒いだ。
子竜は、荷車のあいだを縫って走り回り、最後にリーゼの足元で止まって、その膝に頭を押しつけた。
九人いる。
九人いて、あの子のところへ行った。
「奥方様」
ブリュンヒルデ様が、私の隣で、低い声を出した。
「あの娘は、もしや」
私は、塔の上を見た。
親竜が、片方の目をうっすらと開けて、中庭を見下ろしていた。
「わかりません」
私は、そう答えた。
嘘だった。
けれど、あの子に竜が寄ると私が言えば、それはその日から、あの子の値打ちになる。
九人のうちの一人だけが、竜に選ばれた子になる。
私は、それを言わないと決めた。
その日の朝、たったそれだけのことを、私は自分の手柄のように思った。
街道を八日。
新月の夜は、三日目の宿で来た。
ジルヴェスター様の指先に、青白い光が散った。窓の外で、風が唸った。
私は、その頭を膝に乗せて歌った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
風が凪ぐ。
彼の肩から力が抜けていく。血の底で、あれが寝返りを打って、また眠る。
宿の亭主が翌朝、目を丸くして言った。
昨夜は、宿じゅうが、よく眠れましてございます、と。
道中、私は何度か子どもたちの荷馬車に乗った。
九人は揃わなかった。誰かが歌い出すと別の誰かが違う歌を歌い出す。喧嘩になる。すぐ仲直りする。また別々に歌い出す。荷を引く馬まで、途中から耳を伏せていた。
リーゼだけは、あまり歌わなかった。荷台の縁に腰かけて、流れていく麦畑を見ていた。
五日目の宿で、私は夜中に廊下へ出た。
階段の下に灯りがあった。マルタが一人で座っていた。膝の上で外套を握っていた。
「また、眠れませんか」
「いえ。宿の寝台は、慣れませんもので」
嘘だと思った。
思ったけれど私は訊かなかった。訊けばこの人はまた娘の話にすり替える。そういう癖がついている。
翌朝、九人のうちの誰かが、廊下で私の子守唄を口ずさんでいた。
音は外れていた。九人とも外れていた。
私はそれを直さなかった。
九日目の昼、王都の城門をくぐった。
私は、馬車の窓を開けた。
――歌が、聞こえた。
最初は、中央広場だった。
子どもが、二十人ほど、噴水の縁に並んで歌っていた。
馬車が進む。
次の広場でも、歌っていた。
その次の辻でも、教会の階段でも、市場の裏の空き地でも。
どこにも、子どもがいて、歌っていた。
私は、窓枠を握った。
全部、同じ歌だった。
同じ高さで、同じ速さで、同じところで息を継いでいた。
――ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。
母の歌だった。
お読みいただき、ありがとうございました。甘さの回です。
「あの男は、お前を看板にする」。この人は、招待状を二度読んで、いちばん危ないところを見抜きます。辺境の奥方が並んだ、だからここで選ばれた子は本物だ、と読ませるために名前が要る。歌を聞かせる必要すらない。……使者のヨナスと、公爵様が、同じ本を読んでいるのが面白いところです。
止めきれないと悟った彼は、自分も行くと言い出します。次の新月が旅の途中だと知っていて、去年その王都で倒れたことも覚えていて、それでも行くと言います。
「お前が居ない夜を、私が、越えられると思うか」
四年経っても、この人は目を合わせずに大事なことを言います。そして最後に「これは命令だ」と付け足します。第5話からずっと、この人の甘さはこの形でしか出てきません。
騎士団長の「無理をなさっていない、という顔で、無理をなさいます」も、十年見てきた人にしか言えない台詞でした。
それから、出発の朝のこと。九人いる中庭で、ルルはリーゼのところへ行きました。ブリュンヒルデが察して尋ねます。セレスは「わかりません」と嘘をつきました。
あの子に竜が寄ると言えば、その日からそれはあの子の値打ちになります。九人のうち一人だけが、竜に選ばれた子になります。制度を壊した人が、うっかりすると自分で新しい物差しを配ってしまう。セレスは今度は、踏みとどまりました。
王都に着きます。広場という広場で、子どもたちが歌っています。全部、同じ歌でした。
同じ高さで、同じ速さで、同じところで息を継ぐ――この一行に、ぞわりとしてくださったら嬉しいです。
「これは命令だ」にやられた方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第66話「歌劇公は、私の手を取って微笑んだ」でお会いしましょう。




