第64話: 「いちばん下手な子は、家へ帰ります。金貨を持って」
男は、ヨナスと名乗った。
広間へ通すと、彼はまず外套を脱いで、丁寧に畳んで、椅子の背にかけた。それから深く礼をした。
「歌劇公テオドール・フォン・メルツ様の使いでまいりました。ヨナスと申します」
「歌劇公」
「はい」
窓を背にした椅子に、ジルヴェスター様が座っていた。
呼んでいない。誰も呼んでいない。この人は執務室から降りてきて、いちばん光を背負う位置に腰を下ろし、それきり一言も喋らなかった。
ヨナスはその存在を一度も見ないふりをした。見ないふりが上手すぎた。
私は、机の上の便箋を思い出した。
あの方は、囲ってはおりません。名簿も、刻印もありません。
「ヨナス。あなたは、どちらのご出身ですか」
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「王都でございます。……昨年まで、聖歌庁におりました」
私の隣で、ブリュンヒルデ様の指が、剣の柄にかかった。
「下級の書記でした」
ヨナスは、その動きを見ていた。見たうえで、穏やかに続けた。
「名簿を写す係です。刻印には触れておりません。触れられる位ではございませんでした」
「……庁は、無くなりました」
「はい。ですから、職も無くなりました」
彼は、鞄から麻の袋を出して、卓に置いた。
中で、金属が鳴った。
「歌劇公様は、行き場のない者を、ずいぶんお雇いになりました。私のような者を、六十人ほど」
六十人。
私は、その数をうまく飲み込めなかった。
制度が消えたとき、私は、囲われた歌い手のことだけを考えていた。
その制度で飯を食っていた者が、王都にどれだけいたのかを、一度も数えたことがなかった。
ヨナスは、袋の口を開けて、卓の上に金貨を出した。
積む。数える。並べる。
その音が、広間の高い天井に、ひどくよく響いた。
十枚ずつの山が、九つできた。
「こちらは、支度金でございます。お預かりの九名ぶん」
「……九人、ご存じなのですね」
「門で数えてまいりました」
彼は、山のひとつを私のほうへ少しだけ押した。
「お子様のご家庭へ、そのままお渡しくださいませ。当方は受け取りを求めません。歌劇公様は、こう仰せです。――親から子を買うのではない。子に歌わせるあいだ、家が痩せぬようにするだけだ、と」
私は、金貨を見た。
麦の村の一家が、十枚を、生涯に何度見るだろう。
「秋に、王都で歌劇大会を開きます」
ヨナスは、封をした招待状を九通、卓に並べた。
「国じゅうの歌える子を集めます。旅の費えは当方が持ちます。宿も、食事も」
「集めて、どうなさるのです」
「いちばん上手い子を、選びます」
彼は、言い淀まなかった。
「選ばれた子には、王都で歌う場をお作りします。眠れぬ者は、この国に二千人。歌劇公様は、それを本気で数えておいでです」
二千人。
私は、この春、王立歌劇場の客席で聞いた数を思い出した。
「ヨナス」
「はい」
「では」
私は、自分の声が思ったより静かに出るのを聞いた。
「いちばん下手な子は、どこへ行くのですか」
彼は、少し目を丸くした。
それから、初めて、心から嬉しそうに笑った。
「家へ帰ります。金貨を持って」
私は、何も言えなかった。
「奥方様。あの制度では、選ばれなかった子は、名簿に載らず、それきりでございました。載った子は、二度と家へ帰れませんでした。……どちらも、選ばれた側と、選ばれなかった側の話です」
「はい」
「歌劇公様のところでは、両方が帰れます。上手い子は、歌う場を得て、休みには村へ帰れます。下手な子は、金貨を持って帰ります。誰も、囲われません」
彼の言うことに、間違いはひとつも無かった。
私は、反論を探した。
探して、見つからなかった。
見つからないことが、こんなに嫌なものだとは、思わなかった。
ヨナスは、最後にもう一通、封書を出した。
こちらは、蝋の色が違った。
「これは、奥方様へ」
「私に」
「大会の審査員をお願いしたい、と」
私は、その封書を受け取った。
紙が、重かった。
「奥方様のお名前が並べば、親御は安心なさいます。辺境の奥方様が、いちばん上手い子をお選びになった。……そう聞こえます」
「聞こえます、とは」
「私は書記でございました」
ヨナスは、外套を取って、また丁寧に腕にかけた。
「言葉が、どう聞こえるかを、数えるのが仕事でした」
ヨナスが去ったあと、広間には金貨の山が九つ残った。
ジルヴェスター様はまだ椅子に座っていた。
「セレスティア」
「はい」
「あの男は一度も嘘をつかなかった」
「……はい」
「厄介だな」
彼はそれだけ言って立ち上がった。卓の上の九つの山を一瞥して、広間を出ていった。
その夜。
東の客間の前を通ると、扉が半分開いていた。
リーゼが、寝台に腰かけて、膝の上で招待状を両手で持っていた。封は切っていない。蝋の紋を、指の腹で、何度もなぞっていた。
私に気づくと、顔を上げた。
その目が、いつもよりずっと大人びていなかった。
「奥方様」
「はい」
「わたし、出たいです」
風が、窓の外で鳴った。
私は、その子の膝の上の紙を見た。
――いちばん下手な子は、家へ帰ります。金貨を持って。
あの答えの、どこが嫌だったのか。
私はまだ、それを言葉にできていなかった。
今回いちばん書きたかったのは、「反論できない」という手ざわりです。
ヨナスは感じのいい人です。丁寧で、有能で、嘘をつきません。そして彼の言うことには、ひとつも間違いがありません。上手い子は場を得て休みには村へ帰れる。下手な子は金貨を持って帰る。誰も囲われない。刻印もない。名簿もない。……本当に、その通りなのです。
セレスは反論を探して、見つけられませんでした。見つからないことが、こんなに嫌なものだとは、と彼女は思います。私も、書いていて同じことを思いました。
もうひとつ、書いておきたかったことがあります。制度が消えたとき、私たちは囲われた歌い手のことだけを考えていました。ですが、その制度で飯を食っていた人間も、王都にはたくさんいたのです。名簿を写していた下級の書記。刻印には触れられない位の人。彼らは職を失いました。そして歌劇公が、六十人ほど雇いました。
壊すというのは、そういうことでもありました。
金貨を数える音を、高い天井に響かせたかったので、広間に通しました。十枚ずつの山が九つ。麦の村の一家が生涯に何度見る枚数か、という話です。
リーゼが、初めて自分から何かを言いました。「わたし、出たいです」。あの子の目が、いつもより大人びていなかった、というところを、どうか覚えておいてください。
ヨナスの答えに背筋が冷えた方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第65話「『あの男は、お前を看板にする』」でお会いしましょう。




