第76話: 子守唄は、誰のものでもありません
峠に雪が下りる、十日前だった。
城の中庭に、荷馬車が三台並んでいた。
九人のうち七人が村へ帰る。二人は、峠が開くまで城で冬を越す。ブリュンヒルデ様が目録を配って、親たちに何度も同じことを言い聞かせていた。
マルタとリーゼは、いちばん前の荷馬車だった。
「奥方様。本当に、何とお礼を」
マルタは、また頭を下げようとした。
私はその手を取って止めた。
この人の顔色は、王都で会った頃とは別人のようだった。四刻眠れるようになった人の顔は、こんなに違う。
「マルタ。ひとつだけ、お約束を」
「はい」
「村の祭りで、この子を歌わせないでください」
彼女は、目を丸くした。
「台所で、歌わせてくださいませ。あなたが起きている夜に」
マルタの唇が震えた。
それから、深く、深く頷いた。
リーゼが、荷台の縁から私を見下ろしていた。
「奥方様」
「はい」
「わたし、上手になれませんでした」
「そうね」
私は、その子と目の高さを合わせるために、荷台の車輪に足をかけた。
「上手にならなくて、よかったと思っています」
この子は少し困った顔をした。
ふた月経っても、この子は困ると母親のほうを見る癖が抜けなかった。
「また、来てもいいですか」
「いつでも」
私はその手を握った。
「でも、来なくても歌えます。あなたの歌は、もう、届いておりますから」
中庭の隅で、ルルが荷馬車の車輪を噛もうとして、下働きの少年に叱られていた。
塔の上で、親竜が片方の目を開けていた。
荷馬車が門を出るまで、あの大きな身体は、ずっとそちらを向いていた。
その晩、東の客間が空になった。
私は灯りを持って、誰もいない部屋に入った。
寝台がふたつ。卓がひとつ。窓の桟に、白い埃が薄く積もり始めていた。
ふた月前、この部屋の扉の前で、私は立ち尽くしていた。中から、あとで歌います、と声がした。
私はあの朝、扉を開けなかった。開けなくてよかったと、今は思う。
灯りを吹き消して、廊下へ出た。
城が、静かだった。
冬のあいだ、王都から手紙が来た。
殿下の字は、久しぶりに落ち着いていた。
――セレスティア。返事が、書けるようになりました。
――「うちの子が歌えるようだ、誰に習わせればよいか」という手紙に、私はこう返しております。
――『その子に、誰に聞かせたいのかをお尋ねください。答えが出たら、その人の隣で歌わせてください。それでも足りないときに、王都へおいでなさい』
――三行です。三行で済みました。私は二月ものあいだ、これが書けずにおりました。
私はその手紙を三度読んだ。
メルツ様からも、便が来た。
稽古場は、三つとも開いている。教師も減らしていない。金貨も、変わらず各地へ配られている。
変わったのは、二つだけだという。
番号をやめたこと。
そして、来年の大会の触れ書きが、こう変わったことだった。
――歌える子は、聞かせたい人を、一緒に連れてきてください。
最後に、こう添えてあった。
――ヨナスが、各地を回っております。金貨を配るついでに、家々で、同じことを訊いて回っております。「この子は、誰に聞かせたいのですか」と。あれは書記でしたので、訊いたことは全部、書き留めております。近ごろは、その帳面のほうが厚くなりました。
塔の便りは、その次に届いた。
王都の塔に、手紙が届くようになったのだそうだ。
殿下が、稽古の順序についてイゾルデ様に意見を求めたところ、彼女は三日考えて、こう書いてきたという。
――第一段は、呼吸ではございません。
――第一段は、何のために来たのかを、本人に言わせることでございます。
――わたくしは、それを言えぬまま二十年おりました。ゆえに、正しい第一段を存じません。あの子らに、教わりながら書きます。
殿下は、その紙をそのまま写して、私に送ってくださった。
文字が震えていた。
あの人の字が震えているのを、私は初めて見た。
母の歌の続きは、まだ思い出せていないのだそうだ。
急がなくていい、と私は返事に書いた。
三十年でも、五十年でも。
あなたが今、他人の第一段を書いているというだけで、私は十分に嬉しいのです、と。
グスタフ様は、春から旅に出るらしい。
殿下が「歌を教えられる者を募る」と触れを出したところ、真っ先に手を挙げたのが、また、あの老人だったという。
――王国でいちばん下手な老人が、王国じゅうを回ります。
殿下の字は、そこだけ、また少し乱れていた。
春になったら、二人の子が村へ帰る。
それまでのあいだ、厨房で豆の莢を剥きながら、この子たちは好き勝手に歌うだろう。
誰も直さない。
この城には、直せる者が一人もいない。
その冬の、ある晩。
新月ではなかった。
風もなかった。ただ、雪が音もなく降っていた。
寝室の窓を閉めて振り返ると、ジルヴェスター様が寝台に腰かけて、こちらを見ていた。
「セレスティア」
「はい」
「今日は、あれが静かだ」
「ようございました」
「……そうか」
彼は、少し不服そうに眉を寄せた。
この人は、呪いが静かな夜のほうが、機嫌が悪い。
歌ってくれと言う口実が、無くなるからだ。
私は、寝台に上がって、その頭を膝に乗せた。
「ジルヴェスター様」
「なんだ」
「今日は、あなたのために歌います」
彼の肩がわずかに揺れた。
「……いつもそうだろう」
「いいえ」
私はその髪に指を通した。
「この春は、あの器のために歌っておりました。その前は、王都のために。その前は、この城の皆のために」
窓の外で、雪が積もっていく音がした。音などしないのに、私にはそう聞こえた。
「今日は、あなただけです」
彼は何も言わなかった。
言わずに、私の膝の上で目を閉じた。
私は息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。今日の痛みは、夜が連れていく――」
寝息が、聞こえた。
彼のものと、その下でもうひとつ。低くて、長くて、ゆっくりと上下する、あの音。
廊下で、ハンナが眠っている。詰所で、騎士たちが眠っている。厨房の隅でルルが、塔の上で親竜が眠っている。
この城でいちばん最後に眠るのは、いつも私だ。
南の麦の村の台所でも、今ごろ誰かが眠っているだろう。
あの子は、たぶん今夜も外している。
直す者はいない。
――では、誰が、歌を教えるのですか。
あの一行に、私はまだ、一人では答えられない。
けれど今なら、こう書ける。
誰が、ではありません。
子守唄は、誰のものでもありません。あなたの隣で誰かが眠るなら、その人が、その夜の先生です。
私は歌いながら、そう思った。
膝の上で、腕が伸びた。
ぐい、と引かれて、私は彼の隣に倒れ込んだ。
「眠れ」
「まだ、歌の途中です」
「知っている」
彼は、目を閉じたまま、私を腕の中に閉じ込めた。
「セレスティア。……眠れ。これは命令だ」
私は笑って、目を閉じた。
――第三部 「歌劇公の都」 完――
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
第61話から第76話まで、制度が消えたあとの空白と、上手い順に並べる人と、いちばん下手な子の物語――ここに、完結です。
第二部の最後で、王女殿下が困った顔のまま置いていった問いから始まりました。歌い手は誰のものでもない。囲うのは間違いだった。――では、誰が、歌を教えるのですか。
門の前に来たのは、上手な子ではありませんでした。音は外れ、誰も眠らず、それでも竜が寄りました。
セレスは三日で音を三か所直して、あの子を黙らせました。制度を壊した本人が、いちばん最初に、壊したはずの物差しを自分の手で引き直してしまう。ここを書きたくて、第三部を始めています。
歌劇公は、悪い人ではありませんでした。掛物も絨毯も売って宿代に替え、取り分をゼロにし、子どもの名を二百四十六人まで覚えていた人です。五度願書を書いて五度断られ、十一人を看取って、それから数を数える人間になりました。彼は囲いませんでした。名簿も刻印も作りませんでした。ただ、上手い順に並べただけでした。
私たちが第二部で壊したのは建物で、壊せていなかったのは物差しでした。制度は消えても、教え方は残ります。職を失わなかった男が、今日も床に膝をついて、優しい声で「まず、自分の歌を忘れなさい」と言っていました。
いちばん書きたかったのは、劇場のあの静けさです。上手な百二十六人が誰も眠らせられず、いちばん下手な一人の歌で、客席のいちばん後ろの、いちばん端に座っていた母親が眠りました。二千人が、その一人を見ていました。
あの子は、上手にならないまま村へ帰りました。祭りでは歌いません。台所で歌います。
答えは、「私が教えます」ではありませんでした。
誰が、ではありません。子守唄は、誰のものでもありません。あなたの隣で誰かが眠るなら、その人が、その夜の先生です。――第一部から三部まで、この物語がずっと言いたかったのは、たぶん、それだけのことでした。
呪いは、消えていません。ですから今夜も、セレスが歌います。
生贄として始まった夜ごとの子守唄が、いちばん最後に、彼女がそうしたいからする夜になり、そして今夜は、あの人ひとりのための夜になりました。
三部にわたって二人を見守ってくださった皆様に、心からの感謝を。
ここまでお付き合いくださった方は、どうか【ブックマーク】と【評価(☆☆☆☆☆)】で、最後の応援をいただけましたら嬉しいです。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻したセレスの子守唄になります。
灰色の城の夜は、これからも続きます。またお会いできますように。
霧島結衣




