第62話: 音を直したら、その子は歌わなくなった
三日で、私は行き詰まった。
東の客間に、朝の光が斜めに入る。リーゼが窓際に立ち、私が椅子に腰かける。稽古と呼べるものは、それだけだった。
「歌ってごらんなさい」
「はい」
小さな肩が上下して、息が入る。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
二節目の入りで、音が下へずれた。
「――そこは、もう少しだけ、上です」
私はつい、そう言ってしまった。
リーゼは頷いて、歌い直した。今度は合っていた。
合っていたのに、私の胸のどこかが、ざらりとした。
その日は、それで終わりにした。
昼のあいだ、リーゼは厨房の手伝いをした。下働きの少年と一緒に豆を莢から出す仕事を、飽きもせずに続けていた。手を動かしながら、ずっと鼻歌を歌っていた。廊下まで届いた。音は、やっぱり外れていた。
私は、その外れた鼻歌を聞きながら、書き物机の前で羽根ペンを持っていた。
殿下への返事は、その日も一行も進まなかった。
二日目。
同じ場所で、同じように歌わせた。
音は、前より外れなかった。
けれど、声が小さかった。
昨日の半分ほどの大きさで、リーゼは自分の足元を見ながら、歌っていた。上手になった。そう褒めるべきなのだろう。私は、褒めた。この子は、こくりと頷いた。
その日の午後、厨房から鼻歌は聞こえなかった。
三日目の朝。
私が扉を叩くと、中から声がした。
「奥方様。あとで、歌います」
私は、扉の前で立ち尽くした。
あとで、という言葉を、この子は今まで一度も使わなかった。
昼過ぎ、ハンナが茶を運んできた。
私は、菓子に手をつけないまま訊いた。
「ハンナ。母は、私に歌を教えましたか」
「いいえ」
答えには、迷いがなかった。
「一度も」
「……一度も」
「奥様は、ただ歌っていらっしゃいました」
ハンナは、茶器の位置を直しながら続けた。
「あなた様が生まれてからの幾月か、毎晩でございます。揺り籠の脇に腰かけて、あの歌を。それだけでございます」
「直されたことは」
「ございません」
ハンナは少し考えるように、天井のほうを見た。
「一度だけ、奥様が節を間違えられたことがございます。私が『違いましたね』と申し上げましたら」
「……母は、何と」
「笑っておいででした。『そちらのほうが良い』と」
私は、茶の湯気が細くなっていくのを見ていた。
それだけ。
私は、言葉より先に、あの歌を覚えた。
教わらないまま、一度も直されないまま。
夕方、私が客間から廊下へ出ると、壁際に人が立っていた。
ジルヴェスター様だった。腕を組んで、扉のほうを向いていた。
「……なぜ、こんなところに」
「通りかかった」
この城の主の執務室は、反対側の棟にある。
私が黙っていると、彼は扉のほうを見たまま言った。
「下手だな」
「はい」
「だが」
彼は、少し間を置いた。
「昨日より、小さい」
私は、息を呑んだ。
この人は四年、眠れなかった人だ。夜ごと風の音と、自分の血の軋みを聞き分けて生きてきた人だ。窓を打つ音の大小で、その晩を越せるかどうかを計ってきた人だ。
だから、気づいたのだろう。
私が三日かけて、あの子の声をどれだけ削ったのかに。
「ジルヴェスター様」
「なんだ」
「私、あの子の音を直しました」
「そうか」
「三日で、三か所」
自分の声が震えるのが、聞こえた。
「そのたびに、あの子は小さくなりました」
彼は、何も言わなかった。
腕を組んだまま、しばらく扉を見ていた。
それから、こちらを見ずにこう言った。
「城の者は誰も、お前の歌を直さなかったな」
私は、顔を上げた。
「一度も」
彼は、壁から背を離した。
「私も、直さなかった」
そして、廊下を歩いていった。
その夜、寝室で、私は天井を見上げていた。
私は、あの子の歌を聞いて、最初に何をしただろう。
外れた音を、数えた。裏返った声を、数えた。誰も眠らなかったことを、数えた。
そして、直そうとした。
上手にしようとした。
――上手にする。
私は、寝返りを打った。
二十七を数える前に眠らせる。一晩で四十人。四十一人目は、絶対に眠らない。
あの物差しを、私は壊した側の人間だ。
それなのに私は、あの子を城へ置いた三日で、もう一度、目盛りを引き直していた。今度は自分の手で、いちばん優しい顔をして。
隣でジルヴェスター様の寝息が、ゆっくりと上下していた。
私は、その音を聞きながら、目を閉じた。
母は、教えなかった。
母は、歌っていた。
――では、私はあの子の隣で、何を歌えばいいのだろう。
私は起き上がって、母の楽譜を寝台の上に開いた。
はじめの一頁に、あの子守唄がある。
母の字は、決して上手ではなかった。音符の玉が、線からわずかに浮いている箇所がいくつもある。書き直した跡もない。母はたぶん、一度で書いて、そのまま閉じたのだ。
私は、その浮いた玉のひとつを指でなぞった。
これを正しく写せば、きっと、もっと綺麗な譜面になるだろう。
――綺麗な譜面。
私は楽譜を閉じて、胸の上に置いた。
翌朝。
ハンナがいつもより早く扉を叩いた。
「奥方様。門の前に、お客様が」
私は、寝台から下りかけた足を止めた。
「マルタでしょうか」
「いいえ」
ハンナの声が、少し硬かった。
「……知らない親子です。北の峠を越えていらしたそうで」
窓を開けると、朝靄の向こうに城門が見えた。
その脇に、外套の裾を泥だらけにした人影が、二つ立っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。第三部の二話目です。
セレスは、たった三日で、いちばんやってはいけないことをしました。音を直したのです。
彼女に悪意はありません。それどころか、いい先生になろうとしていました。ずれた音を上へ戻して、褒めて、また歌わせる。世の中のたいていの稽古は、そうやって進みます。ですから読者の皆様も、一度目は「よかったね」と思われたのではないでしょうか。私も、書きながらそう思っていました。
二日目に、声が小さくなります。その日の午後から、厨房の鼻歌も消えます。三日目に、あの子は扉を開けなくなります。
気づいたのが公爵様だった、というところを書きたくて、この回を作りました。四年間、夜ごと風の音と自分の血の軋みを聞き分け、窓を打つ音の大小でその晩を越せるかどうか計ってきた男です。音の大小には、この城の誰よりも敏感なのです。ですから廊下に立って聞いていました。理由は言いません。一生言わないと思います。
最後に「私も、直さなかった」とだけ言って、行ってしまいます。
お母様は、セレスに歌を教えていませんでした。生まれてからの幾月か、揺り籠の脇でただ歌っていただけです。節を間違えて侍女に指摘されて、「そちらのほうが良い」と笑った人でした。セレスは言葉より先にあの歌を覚え、一度も直されないまま今日まで来ています。
制度を壊した人が、制度と同じ目盛りを、いちばん優しい顔をして引き直してしまう。そこが今回のいちばん怖いところです。
門の前に、今度は知らない親子が立っています。
セレスの「直してしまった」に胸がざわついた方は、【ブックマーク】を。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第63話「城の門に、歌える子の列ができた」でお会いしましょう。




