↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
62/76

第62話: 音を直したら、その子は歌わなくなった

 三日で、私は行き詰まった。


 東の客間に、朝の光が斜めに入る。リーゼが窓際に立ち、私が椅子に腰かける。稽古と呼べるものは、それだけだった。


「歌ってごらんなさい」


「はい」


 小さな肩が上下して、息が入る。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 二節目の入りで、音が下へずれた。


「――そこは、もう少しだけ、上です」


 私はつい、そう言ってしまった。


 リーゼは頷いて、歌い直した。今度は合っていた。


 合っていたのに、私の胸のどこかが、ざらりとした。


 その日は、それで終わりにした。


 昼のあいだ、リーゼは厨房の手伝いをした。下働きの少年と一緒に豆を莢から出す仕事を、飽きもせずに続けていた。手を動かしながら、ずっと鼻歌を歌っていた。廊下まで届いた。音は、やっぱり外れていた。


 私は、その外れた鼻歌を聞きながら、書き物机の前で羽根ペンを持っていた。


 殿下への返事は、その日も一行も進まなかった。


 二日目。


 同じ場所で、同じように歌わせた。


 音は、前より外れなかった。


 けれど、声が小さかった。


 昨日の半分ほどの大きさで、リーゼは自分の足元を見ながら、歌っていた。上手になった。そう褒めるべきなのだろう。私は、褒めた。この子は、こくりと頷いた。


 その日の午後、厨房から鼻歌は聞こえなかった。


 三日目の朝。


 私が扉を叩くと、中から声がした。


「奥方様。あとで、歌います」


 私は、扉の前で立ち尽くした。


 あとで、という言葉を、この子は今まで一度も使わなかった。


 昼過ぎ、ハンナが茶を運んできた。


 私は、菓子に手をつけないまま訊いた。


「ハンナ。母は、私に歌を教えましたか」


「いいえ」


 答えには、迷いがなかった。


「一度も」


「……一度も」


「奥様は、ただ歌っていらっしゃいました」


 ハンナは、茶器の位置を直しながら続けた。


「あなた様が生まれてからの幾月か、毎晩でございます。揺り籠の脇に腰かけて、あの歌を。それだけでございます」


「直されたことは」


「ございません」


 ハンナは少し考えるように、天井のほうを見た。


「一度だけ、奥様が節を間違えられたことがございます。私が『違いましたね』と申し上げましたら」


「……母は、何と」


「笑っておいででした。『そちらのほうが良い』と」


 私は、茶の湯気が細くなっていくのを見ていた。


 それだけ。


 私は、言葉より先に、あの歌を覚えた。


 教わらないまま、一度も直されないまま。


 夕方、私が客間から廊下へ出ると、壁際に人が立っていた。


 ジルヴェスター様だった。腕を組んで、扉のほうを向いていた。


「……なぜ、こんなところに」


「通りかかった」


 この城の主の執務室は、反対側の棟にある。


 私が黙っていると、彼は扉のほうを見たまま言った。


「下手だな」


「はい」


「だが」


 彼は、少し間を置いた。


「昨日より、小さい」


 私は、息を呑んだ。


 この人は四年、眠れなかった人だ。夜ごと風の音と、自分の血の軋みを聞き分けて生きてきた人だ。窓を打つ音の大小で、その晩を越せるかどうかを計ってきた人だ。


 だから、気づいたのだろう。


 私が三日かけて、あの子の声をどれだけ削ったのかに。


「ジルヴェスター様」


「なんだ」


「私、あの子の音を直しました」


「そうか」


「三日で、三か所」


 自分の声が震えるのが、聞こえた。


「そのたびに、あの子は小さくなりました」


 彼は、何も言わなかった。


 腕を組んだまま、しばらく扉を見ていた。


 それから、こちらを見ずにこう言った。


「城の者は誰も、お前の歌を直さなかったな」


 私は、顔を上げた。


「一度も」


 彼は、壁から背を離した。


「私も、直さなかった」


 そして、廊下を歩いていった。


 その夜、寝室で、私は天井を見上げていた。


 私は、あの子の歌を聞いて、最初に何をしただろう。


 外れた音を、数えた。裏返った声を、数えた。誰も眠らなかったことを、数えた。


 そして、直そうとした。


 上手にしようとした。


 ――上手にする。


 私は、寝返りを打った。


 二十七を数える前に眠らせる。一晩で四十人。四十一人目は、絶対に眠らない。


 あの物差しを、私は壊した側の人間だ。


 それなのに私は、あの子を城へ置いた三日で、もう一度、目盛りを引き直していた。今度は自分の手で、いちばん優しい顔をして。


 隣でジルヴェスター様の寝息が、ゆっくりと上下していた。


 私は、その音を聞きながら、目を閉じた。


 母は、教えなかった。


 母は、歌っていた。


 ――では、私はあの子の隣で、何を歌えばいいのだろう。


 私は起き上がって、母の楽譜を寝台の上に開いた。


 はじめの一頁に、あの子守唄がある。


 母の字は、決して上手ではなかった。音符の玉が、線からわずかに浮いている箇所がいくつもある。書き直した跡もない。母はたぶん、一度で書いて、そのまま閉じたのだ。


 私は、その浮いた玉のひとつを指でなぞった。


 これを正しく写せば、きっと、もっと綺麗な譜面になるだろう。


 ――綺麗な譜面。


 私は楽譜を閉じて、胸の上に置いた。


 翌朝。


 ハンナがいつもより早く扉を叩いた。


「奥方様。門の前に、お客様が」


 私は、寝台から下りかけた足を止めた。


「マルタでしょうか」


「いいえ」


 ハンナの声が、少し硬かった。


「……知らない親子です。北の峠を越えていらしたそうで」


 窓を開けると、朝靄の向こうに城門が見えた。


 その脇に、外套の裾を泥だらけにした人影が、二つ立っていた。

お読みいただき、ありがとうございました。第三部の二話目です。


セレスは、たった三日で、いちばんやってはいけないことをしました。音を直したのです。


彼女に悪意はありません。それどころか、いい先生になろうとしていました。ずれた音を上へ戻して、褒めて、また歌わせる。世の中のたいていの稽古は、そうやって進みます。ですから読者の皆様も、一度目は「よかったね」と思われたのではないでしょうか。私も、書きながらそう思っていました。


二日目に、声が小さくなります。その日の午後から、厨房の鼻歌も消えます。三日目に、あの子は扉を開けなくなります。


気づいたのが公爵様だった、というところを書きたくて、この回を作りました。四年間、夜ごと風の音と自分の血の軋みを聞き分け、窓を打つ音の大小でその晩を越せるかどうか計ってきた男です。音の大小には、この城の誰よりも敏感なのです。ですから廊下に立って聞いていました。理由は言いません。一生言わないと思います。


最後に「私も、直さなかった」とだけ言って、行ってしまいます。


お母様は、セレスに歌を教えていませんでした。生まれてからの幾月か、揺り籠の脇でただ歌っていただけです。節を間違えて侍女に指摘されて、「そちらのほうが良い」と笑った人でした。セレスは言葉より先にあの歌を覚え、一度も直されないまま今日まで来ています。


制度を壊した人が、制度と同じ目盛りを、いちばん優しい顔をして引き直してしまう。そこが今回のいちばん怖いところです。


門の前に、今度は知らない親子が立っています。


セレスの「直してしまった」に胸がざわついた方は、【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第63話「城の門に、歌える子の列ができた」でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。