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第61話: 下手な歌に、竜が寄る

 あの手紙から、半月が過ぎた。


 エルフリーデ様の最後の一行を、私はまだ机の上に伏せたままにしていた。


 ――では、セレスティア。誰が、歌を、教えるのですか。


 答えを書けないまま、羽根ペンだけが日に日に乾いていく。


 その朝、ハンナが、いつもより静かに扉を叩いた。


「奥方様。門の前に、お客様が」


 窓から見下ろすと、城門の脇に女の人と小さな娘が立っていた。外套の裾は、どちらも泥だらけだった。


「夜明け前から、あそこに」


「お通しして」


「それが……門番が声をかけても、中へは入らないと」


 ハンナが、言いよどんだ。


「南の麦の村から、三日、歩いてきたそうです。娘が、歌えるようなのです、と」


 私は、羽根ペンを置いた。


 紙の上の問いが、歩いて、私の城の門まで来ていた。


 中庭で、母親は、何度も頭を下げた。


 マルタと名乗ったその人は、最後まで私と目を合わせられないまま、こう言った。


「王都の、あの……歌い手を登録するところが、無くなったと聞きました」


「はい」


「では、この子は、どこへ行けばよろしいのでしょう」


 私は、答えられなかった。


 娘は、リーゼといった。十歳。母親の後ろから上目遣いに私を見ていた。目だけがやけに大人びていた。


「リーゼは、歌が上手なのです」と、母親が言った。「村の祭りでも、皆が褒めてくれて」


 そして、少しだけ得意そうに、こう付け加えた。


「村に来た行商人が、辺境の奥方様の子守唄だと言って口ずさんだのを、この子、一度聞いただけで覚えてしまって。……ですから、きっと、奥方様と同じ」


 同じ。


 その一語が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。


「歌ってくださいますか」


 私は膝を折って、娘と目の高さを合わせた。


 リーゼは、こくりと頷いて、息を吸った。


 そして。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 音が、外れた。


 二節目で、もっと外れた。三節目に入る前に喉が引きつって、声が裏返った。


 中庭に、風の音だけが残った。


 ブリュンヒルデ様が、困った顔で私を見た。厨房の窓から覗いていた下働きの少年が、そっと首を引っ込めた。


 誰も、眠らなかった。


 母親の顔が、みるみる赤くなった。


「も、申し訳ございません。この子、緊張して。いつもは、もっと」


「マルタ」


「……村では、本当に、皆、褒めて」


 私は、その先を聞いていなかった。塔の上を見上げていたからだ。


 あの大きな身体が、屋根の上で身じろぎする。三百年生きた親竜が、片方の目をうっすらと開けた。


 そして、厨房の戸が勢いよく開いた。


 ルルが、干し肉をくわえたまま、転がるように飛び出してきた。


 誰も呼んでいない。私すら、呼んでいない。


 子竜はまっすぐにリーゼの足元まで走って、その膝に頭をぐりぐりと押しつけた。


 リーゼが、目を丸くした。


 母親が、悲鳴のような声を上げた。


「り、竜っ……!」


「マルタ」と、私は言った。「この子は、上手ではありません」


 母親の顔から、血の気が引いた。


 私は、続けた。


「けれど、本物です」


 昼過ぎ、私は執務室の扉を叩いた。


 ジルヴェスター様は、書類から顔も上げずにこう言った。


「置いてやれ」


「……まだ、何も申し上げておりません」


「窓から見た」


 彼は、羽根ペンを止めずに続けた。


「ルルが決めたのだろう。あれは、私にすら懐かん時がある」


 私は、机の前に立ったまま、少し黙った。


「ジルヴェスター様。私は、歌を教わったことがありません」


 ペンが、止まった。


「母が、歌っていました。私は、それを隣で聞いていただけです。教え方を、知らないのです」


 彼が、ようやく顔を上げた。暗い金の瞳が、私を見た。


「では、聞くが」


「はい」


「お前はあの娘に、何を教える気だ。音の外し方をか」


 意地の悪い言い方だった。この人は本当に、何ひとつ素直に訊けない。


 けれど、その問いで、私は自分の足元が見えた。


 私はリーゼの歌を聞いて、まず何を数えただろう。


 外れた音を、数えた。裏返った声を、数えた。誰も眠らなかったことを、数えた。


 二十七を数える前に眠らせる。一晩で四十人。四十一人目は、絶対に眠らない。


 ――あの物差しを、私は壊した側の人間だ。それなのに私は、あの娘に同じ物差しを当てていた。


「ジルヴェスター様」


「なんだ」


「私は、上手にする方法を教えられません」


 私は、暗い金の瞳を、まっすぐに見返した。


「ですが、この子がどうして歌いたいのかは、一緒に思い出せます」


 彼はしばらく、私を見ていた。


 それからまた書類に目を落として、こう言った。


「東の客間を使え。冬に備えて空けておいた部屋だ。人が入らんと、埃が湧く」


 この人は、一生、こうなのだろう。


 その夜。


 私は寝る前に、東の客間の前を通った。


 扉の隙間から、明かりが漏れていた。中で、リーゼが小さな声で歌っていた。母親の寝息に合わせるように。


 やっぱり、音は外れていた。


 けれど、その下手な歌の中に、ひとつだけ、私の知っているものがあった。


 この子は、隣で眠っている人のために歌っている。


 私は扉の前で、しばらく立っていた。


 寝室に戻ると、机の上に、新しい手紙が置かれていた。


 エルフリーデ様の字だった。今度は、追伸ではなかった。


 ――セレスティア。答えを急がせておいて、こちらから申し上げるのは心苦しいのですが。


 ――王都で、歌える子どもを集めている者がおります。


 ――各地へ人を出し、家へ支度金を届けているそうです。金貨で。断る親は、おりません。


 私は、指を止めた。


 支度金。


 二十年前、四つの娘に、金貨六十枚。


 ――集めているのは、歌劇公です。


 ――秋に王都で、歌劇大会を開くのだと申しております。国じゅうの歌える子を集め、いちばん上手い子を選ぶのだと。


 ――セレスティア。あの方は、囲ってはおりません。名簿も、刻印もありません。ただ、上手い順に並べるだけです。


 ――それを止める理由が、私には、書けません。


 窓の外で、風が鳴った。


 東の客間の明かりは、もう消えていた。


 いちばん上手い子を、選ぶ。


 ――では、いちばん下手な子は、どこへ行くのですか。


お読みいただき、ありがとうございました。第三部「歌劇公の都」、ここから始まります。


第二部の最後で、エルフリーデ様が困った顔のまま置いていった問い――「では、誰が、歌を、教えるのですか」。制度を壊したのはセレスたちです。ですから、壊したあとに残った空白の前に、いちばん最初に立たされるのも彼女でした。


門の前に来たのは、上手な子ではありませんでした。音は外れます。誰も眠りません。それでも、竜が寄りました。


書いていていちばん怖かったのは、セレスが無意識に、聖歌庁と同じ物差しであの子を測っていたところです。二十七を数える前に眠らせる。一晩で四十人。――壊した側の人間が、いちばん最初に、壊したはずの物差しを手に取ってしまう。


そして王都では、もう誰かが空白を埋め始めています。囲いません。名簿も、刻印もありません。ただ、上手い順に並べるだけです。……それは本当に、聖歌庁とは違うものなのでしょうか。


セレスは、まだ答えを持っていません。ですが、秋は、待ってくれません。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第62話でお会いしましょう。


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