第60話: 眠れる城の、朝
城が見えた時、私は、馬車の窓から、身を乗り出してしまった。
嵐の辺境。灰色の城。
私が、薄物一枚と、古びたトランク一つで、生贄として下ろされた場所。
城壁が、白く光っていた。
氷の薔薇が、また、咲いていた。
前に見た時より、増えている。門から、塔の天辺まで、びっしりと。
「……はしたないぞ」と、隣で、ジルヴェスター様が言った。
けれど、この人も、窓の外を見ていた。
城門で、ハンナが、前掛けで顔を覆って泣いていた。
ブリュンヒルデ様が、その隣で、姿勢を正したまま、目を真っ赤にしていた。
「奥方様。おかえりなさいませ」
「――ただいま、戻りました」
その週、王都から、手紙が届いた。
エルフリーデ様の、几帳面な字だった。
北の丘の扉は、開いたままだという。
風雨が入り、書物が傷み、書記官たちが毎日、泣きそうな顔をしているらしい。それでも、殿下は閉めさせないのだそうだ。
そして、追伸に、こう書かれていた。
――地下二層に、薔薇が咲きました。
私は、その一行を、三度、読んだ。
石になった、三百年前の氷の薔薇。
その、すぐ隣に。
新しい薔薇が、一輪だけ、咲いていたのだという。
――三百年前、あそこに歌い手が居た証が、石になって残っておりました。今は、その隣に、生きた薔薇があります。ユーディトの名は、名簿に戻りました。彼女は、除籍されておりません。彼女は、鎮魂の歌い手です。
私は、手紙を胸に当てて、しばらく、動けなかった。
イゾルデ様の報せは、その次の便で、来た。
彼女は、王都の塔の一室にいる。
王都を眠らせた罪で、裁かれ、そこに、いる。窓には格子があり、扉の前には番兵が立つ。彼女は、一度も、それに文句を言っていないという。
そして、彼女は、歌を教わっていた。
教えているのは、グスタフ様だった。
あの、劇場でいちばん最初に立ち上がった、白雪の戦で息子を亡くした、老人。
殿下が「歌を教えられる者はいるか」と募ったところ、真っ先に手を挙げたのが、あの方だったらしい。
――王国でいちばん美しい声を持つ娘に、王国でいちばん下手な老人が、歌を教えております。
殿下の字は、そこだけ、少し乱れていた。
――グスタフは、こう申しております。「あの娘は、上手すぎていかん。上手すぎると、人が寄ってこん」
私は、声を出して、笑ってしまった。
――セレスティア。ひとつ、伝えておきます。
――先日、グスタフが節を間違えて、まるきり違う歌になってしまったそうです。それを聞いて、あの娘が。
私は、その先を、指でなぞった。
――笑ったそうです。
私は、窓辺で、泣いた。
あの人は、笑わなかった。
一度も。城でも、劇場でも、地の底でも。
母の歌の続きは、まだ、思い出せていないのだという。
三十年かかっても、五十年かかっても、構わないのだと、彼女は言っているらしい。
罪は、消えない。あの人は、一生、それを背負う。
けれど、あの人は、生きている。そして、歌を、習っている。
それでいい、と、私は思った。
城の日常は、驚くほど、元のままだった。
ハンナが、朝、窓を開ける。
ブリュンヒルデ様が、中庭で騎士たちを怒鳴る。
ルルが、厨房から干し肉を盗んで、追い回される。
ひとつだけ、増えたものがあった。
塔の上に、親竜が、居着いてしまったのだ。
あの大きな身体で、塔の屋根に丸くなって、一日中、眠っている。
王都で、あんなに鳴いたのだ。喉が、嗄れたのだろう。
ハンナが「屋根瓦が持ちません」と嘆いていたけれど、誰も、追い出そうとはしなかった。
新月の晩が、来た。
その夜、寝室で、ジルヴェスター様の身体が、こわばった。
「――来たか」
彼の指先に、あの青白い光が、ちりちりと散った。
窓の外で、風が唸った。
血の底で、あれが、寝返りを打っている。
呪いは、消えていない。
この人は、一生、これを抱えて生きる。三百年前に、彼の先祖が、歌い手を庇ったから。
「セレスティア」と、彼は、額に汗を浮かべて言った。「……すまん」
「なぜ、謝るのですか」
「私は、一生、お前に、歌わせる」
私は、寝台に上がって、その頭を、膝に乗せた。
この人は、本当に、変わらない。
四年、一人で眠れずにいて、私に「子守唄など要らぬ」と言って。それから、「歌え」と命令して。「歌うな」と懇願して。そして今、「すまん」と言う。
「ジルヴェスター様」
「なんだ」
「私、歌が好きなんです」
彼が、目を、瞬いた。
「それだけです」
私は、彼の髪に指を通して、息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
風が、凪いだ。
光が、消えた。
彼の肩から、力が抜けていく。
そして、私の膝の下、この人の血の、いちばん深いところで。
――寝息が、聞こえた。
彼のものと、もうひとつ。
低くて、長くて、ゆっくりと上下する、あの音。
私は、歌いながら、微笑んだ。
おやすみなさい。
あなたも。
どちらも、私が寝かしつけた者だ。
もう、どちらも、怖くない。
城が、静かだった。
塔の上で、親竜が眠っている。
厨房の隅で、ルルが眠っている。廊下で、ハンナが眠っている。詰所で、騎士たちが眠っている。
この城で、いちばん最後に眠るのは、いつも、私だ。
――それで、いい。
私が、そう思った時。
膝の上で、腕が伸びた。
ぐい、と引かれて、私は、彼の隣に、倒れ込んだ。
「ジル、ヴェスター様?」
「眠れ」
彼は、目を閉じたまま、私を腕の中に閉じ込めた。
「セレスティア。……眠れ。これは、命令だ」
命令の形をした、懇願だった。
この人は、本当に、何ひとつ、素直に言えない。
一生、そうなのだろう。
私は、笑って、目を閉じた。
朝が、来た。
私は、寝坊した。
窓から光が差し込んで、氷の薔薇が、きらきらと、天井に模様を落としていた。
隣で、この王国でいちばん恐れられた男が、口を半分開けて、間の抜けた顔で、眠っていた。
城じゅうから、寝息が、聞こえた。
かつて、眠れぬ城と呼ばれた場所だ。
主が眠れず、夜ごと嵐が窓を叩き、誰も安らげなかった、灰色の城。
今、そこは。
――眠れる城の、朝だった。
その日の午後、また、王都から手紙が来た。
殿下の字は、いつもより、短かった。
――セレスティア。困ったことになりました。
――登録制度は、消えました。認定審査も、聖歌庁の名簿も、ありません。歌い手は、もう、誰のものでもない。それは、私たちが勝ち取ったものです。
――ですが、あれから、王都に、手紙が届き続けています。各地から。「うちの子が、歌えるようだ」「どうすればいいのか」「誰に、習わせればいいのか」と。
――囲うのは、間違いでした。それは、はっきりしました。
私は、その先を読んで、羽根ペンを取り落とした。
――では、セレスティア。誰が、歌を、教えるのですか。
私は、窓の外を見た。
氷の薔薇。眠る竜。寝息の戻った、私の城。
そして、その、ずっと向こうに、王都の空が、霞んでいた。
私は、まだ、答えを持っていない。
今はただ、三百年の夜を越えた城に訪れた、この、あたたかな朝を。
どうか、祝福してくださいませ。
――第二部 「夜啼きの呪いの、本当の起源」 完――
最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました。
第31話から第60話まで、三百年前の断罪と、夜啼きの器と、囲われた歌姫の物語――ここに、完結です。
思えば、長い道のりでした。
「あなたの代わりは、もう居ります」——セレスの唯一性が崩れるところから始まりました。彼女は、自分の存在理由そのものを、奪われかけました。
そして、扉が開きました。三百年、大火で焼けたことにされていた記録庫。無傷の書架。石になった氷の薔薇。壁に爪で刻まれた五線。「功により、東の最果てを賜る」という、流刑の言い換え。
いちばん書くのが苦しかったのは、器を打ち込まれたのが歌い手ではなく、彼女を庇った男だった、という一点です。歌えば、愛する人が苦しむ。だからユーディトは、自ら歌うのをやめました。そして三百年、何も、誰も、救われませんでした。
だから、セレスは、選び直しました。三百年前と、同じ間違いはしませんでした。
そして、彼女は、器を壊しませんでした。討ちませんでした。あれは、敵ではなく、三百年、一睡もできなかった者だったからです。「あなたも、眠れなかったのですね」——鎮める・眠らせる・癒す。攻撃の役に立たない、無力な優しさ。それだけが、三百年、誰にも届かなかったものに、届きました。
イゾルデは、赦されませんでした。裁かれて、塔にいます。けれど、生きています。そして今、王国でいちばん下手な老人から、歌を習っています。彼女は、笑うことを覚えました。
呪いは、消えません。ですから、毎晩、セレスが歌います。
生贄として始まった夜ごとの子守唄が、いちばん最後に、彼女がそうしたいからする夜になりました。この物語で、私がいちばん書きたかったのは、そこでした。
さて、最後に、王女殿下が困った顔で問いを残していきましたね。
歌い手は、誰のものでもない。囲うのは間違いだった。——では、誰が、歌を教えるのですか。
制度が消えたあとに残った、大きな空白です。その答えを探しに、二人は、もう一度、王都へ行くことになります。
物語は、第三部「歌劇公の都」へと続いてまいります。
ここまで、二人を見守ってくださった皆様に、心からの感謝を。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
それでは、第三部「歌劇公の都」で、またお会いできることを楽しみにしております。
霧島結衣




