第59話: 三百年目の、王家の謝罪
王が、頭を下げたのは、玉座の間では、なかった。
北の丘の、旧記録庫の前だった。
三百年、開かなかった扉。その前に、王国の主が、外套の裾を土に汚して、立っていた。
丘には、たくさんの人が集まっていた。
貴族も、商人も、埠頭の荷役も。あの劇場で眠らされ、下手くそな歌で叩き起こされた人たちが、勝手に、上がってきたのだ。
殿下が、追い返すな、と仰った。
「三百年前」
殿下の声が、丘に響いた。
「王国は、鎮魂の歌い手ユーディトを断罪しました。理由は、国家への奉仕を拒んだこと。……つまり、言うことを聞かなかったこと、それだけです」
殿下の手には、三百年前の聖歌隊名簿があった。
私は、その頁を、覚えている。「ユーディト(除籍)」。そして、除籍理由の欄に塗られた、黒い墨。
「王家は、彼女の歌を封じるために、器を作らせました」と、殿下は言った。「けれど、彼女の喉には、使いませんでした」
殿下は、私の隣に立つジルヴェスター様を見た。
「彼女を庇った男に、打ち込んだのです。歌えば、その男が苦しむように」と、殿下は言った。「――そうすれば、彼女は、自分から黙りますから」
丘が、しん、となった。
「そして、彼女は、黙りました」
殿下の声が、初めて、掠れた。
「三百年です。三百年、あの器は、使われないまま、ヴァルトハイム家の血の中で、眠っておりました。私たちは、それを『大火で焼けた』と書いて、扉に鍵をかけました」
殿下は、名簿を、高く掲げた。
「ご覧なさい。これが、私たちがしたことです」
王が、一歩、前に出た。
私は、初めて、この方の顔を、まっすぐに見た。
思っていたより若く、思っていたより、ずっと、疲れた顔をしていた。
「セレスティア・フォン・ヴァルトハイム」
「はい」
「余は、三百年前の王ではない。器を作らせてもいなければ、扉に鍵をかけてもいない」と、王は言った。「……そう言って、逃げることも、できた」
「だが、余は、その鍵を、三百年、受け継いできた者だ」
そして、王国の主は、頭を下げた。
深く。ためらいも、駆け引きも、なく。
人々が、息を呑む音が、聞こえた。
「――すまなかった」
私は、何も、言えなかった。
私が言えることでは、なかったからだ。
私は、三百年前に、あの地の底に、居なかった。
ですから、私は、振り返った。
開いたままの、扉。その暗い口の奥に、爪で刻まれた五線があることを、私は知っている。
あの言葉は、そちらへ、届けるべきものだった。
「陛下」
私は、言った。
「その言葉は、私ではなく、あの方へ」
王は、顔を上げて、扉を見た。
それから、扉に向かって、もう一度、頭を下げた。
その日、二つの記録が、書き換えられた。
ひとつは、聖歌隊名簿。
「墨は、消えません」と、殿下は言った。「三百年前の墨を、削って、無かったことにはできません。……それをやったのが、ケルバー家です」
殿下は、羽根ペンを取り、黒く塗り潰された行のすぐ下に、新しく書いた。
――ユーディト。鎮魂の歌い手。除籍を取り消す。断罪を、破棄する。
――三百年前の記録は、誤りである。塗り潰しは、王家がこれを行った。
「これが、記録というものです」と、殿下は言った。「都合の悪い頁を破るのではなく、その下に、書き足す。……三百年前の私たちに、それができていれば、あなたは、ここに立っていなかった」
もうひとつは、ヴァルトハイム家の家譜だった。
書記官が、羽根ペンを構えて、ジルヴェスター様を見上げた。
――功により、東の最果てを賜る。
「閣下。この一行を、いかがなさいますか」と、書記官が言った。「いかようにも書き改めてよい、と」
ジルヴェスター様は、長いこと、その一行を見ていた。
この人が、三百年、家の誇りだと信じてきた一行だ。
武門の家。王国の盾。北の嵐を一身に受ける、名誉ある辺境伯。
その全部が、嘘だった。
「『功により』を、消せ」と、彼は言った。
「はい」
「代わりに、事実を書け」
彼の声は、低く、静かだった。
「――歌い手を庇いし罪により、東の最果てへ移す」
書記官のペンが、止まった。
「閣下。それでは、御家の名誉が」
「まだ、ある」と、ジルヴェスター様は言った。「その次の行に、こう書き足せ」
彼は、扉のほうを見た。
三百年前、彼の先祖が、器を打ち込まれた場所を。
「――その罪を、我が家は、誇りとする」
私の視界が、滲んだ。
この人は、汚名を、雪がなかった。
嘘の誉れを取り戻すのではなく、本当の罪を、家の背骨に据えたのだ。
誰かが、拍手をした。
それは、丘いっぱいに広がって、しばらく、止まなかった。
「ときに、公爵」
やがて、王が言った。
「その器を、そなたの血から、取り除く方法は」
「ございません」
ジルヴェスター様は、あっさりと、答えた。
「作った者は、三百年前に死にました。作り方を書いた紙も、残っておりません。……取り出せば、私が死にます」
「では、そなたの呪いは」
「消えません」
人々が、ざわめいた。
器は、眠っただけだ。壊れてはいない。今も、この人の血の底で、寝息を立てている。
新月の晩には、また、寝返りを打つのだろう。この人は、一生、それを抱えて生きる。
「陛下」
私は、一歩、前に出た。
「呪いは、消えません」
私は、丘に集まった人々に、聞こえるように、言った。
「ですから――毎晩、私が、歌います」
風が、吹いた。
「それだけのことでございます」
誰かが、笑った。
馬鹿にした笑いでは、なかった。
私の隣で、ジルヴェスター様が、ふ、と息を吐いた。
そして、私の手を、握った。人前で、堂々と。
――ああ、と、私は思った。
私たちは、振り出しに、戻ったのだ。
眠れない人がいて、私が、毎晩、歌う。
あの、灰色の城の、最初の夜と、まったく同じだ。
けれど、あの夜と、ひとつだけ、違う。
あの夜、私は、生贄だった。
今夜からは、私は、そうしたいから、そうするのだ。
日が傾く頃、書記官が、扉に鍵をかけようとして、殿下に止められた。
「ですが、風雨が入ります。書物が傷みます」
「傷めばよい」と、殿下は言った。「三百年、傷まぬように守った結果が、これです」
殿下は、その暗い口を、しばらく見ていた。
「もう、閉めません。……誰でも、いつでも、入れるように」
私は、丘を下りながら、一度だけ、振り返った。
三百年前に閉じられた扉が、夕日の中で、開いたままになっていた。
風が、その中へ、吹き込んでいく。
地の底の、爪で刻まれた五線のところまで、届いただろうか。
三百年ぶりの、風だった。
お読みいただきありがとうございます。三百年目の、清算です。
王は、玉座の間ではなく、旧記録庫の前で頭を下げました。そして、セレスはその謝罪を受け取りませんでした。彼女が受け取れるものではないからです。三百年前に、あの地の底に居たのは、彼女ではありません。
エルフリーデ王女の「墨は、消えません」という言葉が、この回の芯です。都合の悪い頁を破るのがケルバー家のやり方でした。書き足すのが、記録というものです。
そして、ジルヴェスター様。彼は、家の汚名を雪ぎませんでした。「功により、東の最果てを賜る」という嘘の誉れを取り戻すのではなく、「歌い手を庇いし罪により、東の最果てへ移す」と事実を書かせて、その次の行に、こう足しました。——その罪を、我が家は、誇りとする。
三百年、この人の家は、間違った誇りを抱いて生きてきました。今日から、正しい誇りを抱いて生きるのです。
呪いは、消えません。器は壊せません。ですから、毎晩、彼女が歌う。
振り出しに戻ったようでいて、まるで違います。あの灰色の城の最初の夜、彼女は生贄でした。今夜からは、そうしたいから、そうするのです。
次回、いよいよ最終話。二人は、城へ帰ります。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第60話「眠れる城の、朝」でお会いしましょう。




