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第58話: 起こす歌を、教えます

 最後の一枚が、剥がれた。


 黒い鱗が、彼女の喉から落ちて、石畳で、砕けた。

 その音を最後に、イゾルデ様は、糸の切れた人形のように、崩れた。


 私は、駆け寄って、その身体を抱きとめた。


 軽かった。

 二千人を眠らせた歌姫は、私の腕の中で、驚くほど、軽かった。


「イゾルデ様」


 返事は、なかった。


 瞼は、閉じている。呼吸はある。頬に、わずかな温もりもある。

 けれど、いくら呼んでも、揺すっても、彼女は、起きなかった。


「奥方様」


 階段を駆け下りてきたブリュンヒルデ様が、剣を抜いたまま、足を止めた。


「王都の音が、戻っております」と、彼女は言った。「鐘が鳴り、鳥が飛び、人が起き上がっております。……終わりました」


「イゾルデ様が、起きません」


 ブリュンヒルデ様の顔から、表情が消えた。


「……奥方様。その者は」


 言いかけて、彼女は、口を噤んだ。

 言わなくても、私には、分かっていた。


 この人は、王都を眠らせた。

 鳥を落とし、鐘を止め、二千人の呼吸を、その手で止めかけた。

 この人が、このまま目覚めなくとも、誰一人、困らない。むしろ、それが、いちばん静かな幕引きだった。


 石畳に、私の膝が、冷えていく。


 ――あの劇場で。

 この人は、眠らせた人々を前にして、こう言ったのだ。


 その歌は、教わっておりません、と。


 そして今、この人自身が、覚めぬ眠りの底にいる。

 起こす歌を、誰にも教わらないまま。


「起こします」


 私は、言った。


「私が、起こします」


 私は、歌った。


 いつもの子守唄ではない。あの晩、劇場で二千人と歌った、起こすための歌い方だ。

 拍を上げて。息継ぎを浅く。窓を叩くように。


 彼女の睫毛は、動かなかった。


 もう一度。

 三度目。四度目。


 喉が、ひりついた。

 何も、起きなかった。


「セレスティア」


 いつのまにか、ジルヴェスター様が、私のうしろに立っていた。

 まだ足元は覚束なかったけれど、その手は、しっかりと、私の肩に置かれた。


「あの劇場では、二千人が歌った」と、彼は言った。「その者を、呼ぶ声は、どこにある」


 私は、息を呑んだ。


 ――そうだ。

 あの晩、目を覚ました人々は、自分を呼ぶ声を、聞いたのだ。


 名を呼ばれ、下手くそな歌で叩き起こされて、それで、帰ってきた。

 グスタフ様には、亡くした息子の分まで、隣で歌う商人がいた。若い母親には、赤ん坊がいた。


 この人には。


 この人には、誰も、いない。

 四つの歳に、姓を捨てさせられ、家族を捨てさせられ、望みを捨てさせられて。


 ――待ってください。


 私は、顔を上げた。


 全部、捨てさせられたのではなかった。

 ひとつだけ。たったひとつだけ、あの人たちが、取り上げそこねたものが、あったはずだ。


 名前だけは、捨てさせてもらえませんでした。

 ……母が、つけた名前でした。


 私は、その細い肩を、抱き直した。


 もう、「静寂の歌姫」とは呼ばない。

 「イゾルデ様」とも呼ばない。

 聖歌庁が測り、値をつけ、名簿に載せた、あの呼び方では、この人には、届かない。


 四つより前の。

 この人を、この人として呼んだ、たったひとりの人と同じ呼び方で。


「イゾルデ」


 私は、その耳元で、呼んだ。


「――イゾルデ」


 睫毛が、震えた。


 私は、歌った。

 今度は、教えるように。ゆっくりと。下手でいいのだと、伝えるように。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 そして。


 彼女の唇が、動いた。


 声が、漏れた。


 ――それは、私の歌では、なかった。


 知らない旋律だった。聖歌庁の、あの完璧な歌でもなかった。

 どこの国のものとも知れない、短い、素朴な節。


 音程は、外れていた。

 拍も、ばらばらだった。途中で切れて、また戻って、また切れた。


 この王国でいちばん美しい声を持つ人が、生まれて初めて、ひどい音痴の歌を歌っていた。


 私は、涙が止まらなかった。


 覚えて、いたのだ。

 四つの歳に、全部、捨てさせられたはずなのに。


 この人の中で、それは、二十年、消えずに残っていた。


 灰色の瞳が、開いた。


 彼女は、天井を見た。

 石の天井を。三百年、鎖が繋がれていた、その天井を。


 それから、ゆっくりと、自分の頬に、手をやった。


 濡れていた。


「……これは」


 彼女は、平坦な声で、言った。


「これは、何ですか」


「涙、と申します」


「……登録が、ありません」と、彼女は言った。「記録に、ありません。わたくしの記録に、この、症状は」


 そこで、彼女の言葉が、止まった。


 止まって、二度と、続かなかった。


 この人は、二十年、感情に名前を持たなかった。

 だから、それが来たとき、名前を探して、探して、見つからなくて――ただ、こわれた。


 「あ」と、彼女は言った。


 それは、言葉ではなかった。

 喉から、勝手に、こぼれた音だった。


 そして、静寂の歌姫は、私の腕の中で、声をあげて、泣いた。


 みっともなく、しゃくりあげて。息を詰まらせて。ひどい、汚い泣き方だった。

 二千人を黙らせた喉が、生まれて初めて、そんな音を出していた。


 私は、その背を、さすり続けた。


 どれほど、そうしていただろう。


「……セレスティア様」


 やがて、彼女は、掠れた声で言った。


「あなたは、なぜ、わたくしを、起こしたのですか」


「あなたが、眠っていたからです」


「わたくしは、王都を、眠らせました」


「はい」


「鳥が、落ちました。鐘が、止まりました。……閣下を、削りました」


「はい」


「では、なぜ」


 私は、彼女の顔を、覗き込んだ。


「イゾルデ様。あの劇場で、あなたは、私に仰いましたね」


 私は、言った。


「その歌は、教わっておりません、と」


 彼女の唇が、震えた。


「起こす歌は」と、私は言った。「こうやって、歌うのです」


 私は、彼女の手を取って、その掌を、自分の喉に当てさせた。


「拍を、上げます。息継ぎを、浅く。窓を叩くように。……上手でなくて、構いません。音が外れても、構いません」


「――」


「お教えします」


 彼女の顔が、くしゃりと、歪んだ。


 それから、彼女は、深く、頭を垂れた。

 石畳に、額がつくほど、深く。


「セレスティア様」


「はい」


「わたくしは、裁かれるのでしょうか」


「はい」


 私は、はっきりと、言った。


「あなたは、裁かれます」


 ブリュンヒルデ様の手が、剣の柄から、離れた。


「あなたは、囲われた人です。四つの歳に、全部を取り上げられた人です。……それは、本当です。私は、それを、一生忘れません」と、私は言った。「けれど、あなたは、王都を眠らせました。それも、本当です」


「……はい」


「イゾルデ様。私は、あなたを赦しません。赦す資格が、私にはありません。赦せるのは、あなたが眠らせた、あの人たちだけです」


 私は、彼女の、冷たい手を、両手で包んだ。


「ですから」


「裁かれてください。そして――生きてください」


 彼女は、長いこと、黙っていた。


 地の底に、水の落ちる音がした。

 どこか遠くで、王都の鐘が、鳴っていた。


「わたくしには」と、彼女は言った。「望みが、ありません」


「はい。存じております」


「……四つの歳に、捨てさせられました。望みを持つと、逸脱になりますので」


「はい」


 私は、待った。


 彼女の喉が、動いた。

 あの、聖歌庁の刻印が、まだ残る、細い喉が。


 それから。


 この人が、二十年、一度も口にしたことのない形の言葉が、こぼれた。


「……あの歌の」


 彼女は、床を見たまま、言った。


「あの、母の歌の。……続きを、思い出したいのです」


 彼女は、顔を上げた。


 灰色の瞳が、初めて、まっすぐに、私を見ていた。


「わたくしは、あの歌を、最後まで、歌いとうございます」

お読みいただきありがとうございます。第40話から、ずっと、この一言を書くために書いてきました。


「起こす歌は、こうやって歌うのです。……お教えします」


聖歌庁は、眠らせる歌しか教えませんでした。起こす歌を教えないのは、必要がないからではなく、教えてしまえば、囲えなくなるからです。誰にも真似できないから値打ちがある。それが、あの人たちのやり方でした。


セレスの歌は、その正反対でした。一遍聞けば誰でも覚えられる。だから二千人で歌えた。そして——二十年、誰の記録にも残らなかった、四つより前の母の歌を、思い出させることもできました。


王国でいちばん美しい声の持ち主が、生まれて初めて歌った歌が、ひどい音痴だったこと。彼女が生まれて初めてこぼした感情に、名前がつけられなかったこと。それが、この人の二十年です。


ですが、セレスは彼女を赦しませんでした。赦せるのは、眠らされた人たちだけだからです。「裁かれてください。そして、生きてください」——優しさとは、免罪のことではないと、私は思っています。


そして最後に、彼女は、生まれて初めて、自分の望みを口にしました。国を変えたいでも、自由になりたいでもなく。ただ、母の歌の続きを、思い出したい。それだけです。それだけが、あの人たちに取り上げそこねられた、たったひとつでした。


次回、三百年前の清算です。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第59話「三百年目の、王家の謝罪」でお会いしましょう。

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