第57話: 夜啼きの器に、子守唄を
息が、入った。
三百年ぶりに、この地の底に、音があった。
はるか頭上、丘の上で、親竜が鳴いている。長く、太く、ひどく下手な声で。その一本が、静寂に、針の穴ほどの穴を開けていた。
私は、その穴から、息を吸った。
旧記録庫の、地下二層。
鎖の跡が残る壁。爪で刻まれた五線。隅に、石になった氷の薔薇。
その、いちばん奥。低い戸口の、その先。
部屋の中央に、黒い鋳型が、据えられていた。
人の胴ほどの高さの、硝子とも鉄ともつかないもの。
神の遺物でも、古の秘宝でもない。三百年前の人間が、鎚と鏨で、こつこつと叩いて作ったものだ。ただの、道具だ。
その前に、白い装束が、立っていた。
「歌わないでください」
平坦な声だった。
イゾルデ様の身体には、黒い鱗のようなものが、幾重にも貼りついている。鋳型から剥がれた、殻だ。
彼女は、それを纏っていた。三百年ぶんの怨嗟を、着物のように。
「対象は、閣下です」と、彼女は言った。「器の本体は、閣下の血にあります。あなたが歌えば、深度が上がります。……あなたの歌は、閣下を、削ります」
私の足元で、ジルヴェスター様が、片膝をついていた。
その額から、汗が、石畳に落ちていた。
この人の中で、三百年眠っていたものが、寝返りを打っている。それだけで、この人は、こんなにも、削れる。
「セレスティア」と、彼が、掠れた声で言った。「……構わん。歌え」
「閣下は、逸脱しておられます」と、イゾルデ様が言った。「宿主が、器を、拒んでおられない」
彼女は、私を見た。灰色の瞳だった。
「わたくしは、皆を眠らせます」と、彼女は言った。「眠っていれば、誰も、誰かを囲いません。……セレスティア様。あなたも、眠ってくださいませ。そうすれば、あなたを囲おうとする者も、居なくなります」
この人は、憎んでいない。
誰のことも、一度も。
それが、この人の、いちばん恐ろしいところだった。
私は、息を吸って、歌った。
「ねむれ――」
その瞬間、ジルヴェスター様が、呻いた。
彼の背が、弓のように反った。
周りの空気が、鳴った。指先から、あの青白い光が散った。この地の底に、雷が走った。
私は、慌てて、口を閉じた。
鳴りやんだ。
彼は、荒く息をついて、石畳に手をついていた。
「……ご覧なさい」と、イゾルデ様が言った。「記録どおりです」
そうだ。
記録どおりだ。三百年前と、同じだ。
ユーディト様が歌えば、初代様が苦しんだ。だから、彼女は歌うのをやめた。
私が歌えば、この人が削れる。だから、私も、やめるべきだ。
――それで、三百年、いったい何が救われた。
私は、歯を食いしばった。
歌わなければ、この人は死なない。そのかわり、王都の二千人が眠ったまま、二度と起きない。歌えば、二千人は起きて、この人が死ぬ。
どちらかを、選べというのか。
その時、頭上で、竜が、また鳴いた。
さっきより、掠れていた。
あの大きな喉も、無限ではない。あの子は、いつまでも鳴いてはいられない。
――お待ちください。
私は、自分の歌が消えた場所を、思い返した。
私が「ねむれ」と歌った時、あれは、確かに、応えた。
あの共鳴だ。王都の宿館で聞いた、鐘の内側にいるような、低い唸り。
あれは、どう応えた?
同じ拍で。
同じ、息継ぎで。
私の背筋を、冷たいものが走った。
――逆らって、いなかった。
あれは、私の歌を、遮ろうとしていない。かき消そうともしていない。
あれは、私の歌に、合わせようとしていた。
三百年前、口を塞がれた誰かが、それでも喉を鳴らし続けているような。
あの時、私は、確かに、そう思ったのだ。
夜啼きの器。
王家が、ユーディト様の歌を封じるために作った、容れ物。
――では、封じた歌は、どこへ行ったのですか。
どこへも、行かない。
行けるはずが、ない。容れ物に入れて、蓋をしたのだから。
あれは、この三百年、ずっと、器の中で鳴りっぱなしだったのだ。
誰にも聞かれず。誰にも応えてもらえず。止まることも、許されず。
私の膝から、力が抜けた。
私の歌が、あれに、深く届きすぎる。
――違う。
あれは、目を覚ましたのではない。
呼ばれたのだ。三百年、誰にも呼ばれなかったものが、初めて名を呼ばれて、起き上がっただけだ。
起きてしまった者を、どうすればいいか。
私は、知っている。
眠れない者を、眠らせること。それだけが、私にできる、たったひとつのことだった。
「ジルヴェスター様」
私は、膝をついて、彼の頬に手を当てた。
「私は、あれを、壊しません」
「……なに」
「壊せません。あれは、あなたです」と、私は言った。「けれど、眠らせることは、できます」
彼は、汗みずくの顔で、私を見上げた。
そして、その口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「セレスティア」
「はい」
「一年前、私は、お前に『子守唄など要らぬ』と言った」と、彼は言った。「先日は、『歌うな』と言った」
彼の手が、私の手の甲を、握った。
「どちらも、間違いだ」
「ジルヴェスター様……」
「歌え、セレスティア。――これは、命令だ」
命令の形をした、懇願だった。
この人は、いつも、そうだ。何ひとつ、素直に言えたためしがない。
私は、笑ってしまった。
こんな時に、私は、笑っていた。
私は、立ち上がった。
そして、黒い鋳型に、向き直った。
イゾルデ様が、私の前に立ちはだかる。
「対象を、誤っておられます」と、彼女は言った。「そこには、誰も、居りません」
「居ります」
私は、彼女の肩ごしに、その黒いものを、まっすぐに見た。
三百年、この石の底で。
鎖に繋がれ、口を塞がれ、それでも鳴り続けて。誰にも聞かれないまま、一睡も、していない。
私の喉が、震えた。
「あなたも」
私は、言った。
「――眠れなかったのですね」
黒い鋳型が、ぴたりと、鳴りやんだ。
私は、息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
部屋が、震えた。
「今日の痛みは、夜が連れていく――」
応えが、来た。
同じ拍で。同じ、息継ぎで。
低い、低い唸りが、私の歌を、たどたどしく、なぞりはじめた。
下手だった。
ひどく、下手だった。三百年、誰にも教わらなかった声だった。
私は、歌い続けた。
もう一度。ゆっくりと。
子どもに教えるときのように。厨房の少年に教えたときのように。二千人の音痴に教えたときのように。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
唸りが、揃ってきた。
黒い鱗が、イゾルデ様の肩から、ぱらり、と落ちた。
もう一枚。もう一枚。
石畳に、乾いた音が転がる。
三百年ぶんの怨嗟が、剥がれていく。剥がれて、床に落ちて、ただの黒い硝子の欠片に、戻っていく。
「なぜ」と、イゾルデ様が言った。初めて、その声が、揺れた。「なぜ、それは、眠るのですか。それは、憎しみで、できております」
「いいえ」
私は、歌の合間に、答えた。
「――寝不足です」
ジルヴェスター様の呼吸が、静かになっていた。
彼の肩から、力が抜けていく。魔力の光が、指先から、消えていく。
この人の血の底で、三百年、寝返りを打ち続けていたものが、ようやく、身を横たえた。
私は、歌い続けた。
頭上の竜が、鳴くのをやめた。もう、いらなかった。
工房に、私の声だけが、残った。
そして。
黒い鋳型から、音がした。
唸りではなかった。共鳴でもなかった。
低くて、長くて、ゆっくりと上下する、それは。
――寝息だった。
三百年ぶりに。
夜啼きの器が、寝息を、立てていた。
お読みいただきありがとうございます。第6章の、そしてこの物語の、クライマックスです。
セレスは、器を壊しませんでした。討ちもしませんでした。
だって、あれは「敵」ではなかったのです。三百年前、王家がユーディトの歌を封じるために作った容れ物。ならば、封じられた歌は、どこへも行けません。蓋をされた器の中で、三百年、誰にも聞かれないまま、鳴りっぱなしだった。
つまり、夜啼きの器とは——三百年、一睡もできなかった者のことでした。
第36話から続いてきた「私の歌が眠らせすぎる」という違和感。あれは、セレスの力が強くなったのではなく、器が呼ばれて起き上がっていたからです。そして、起きてしまった者を眠らせることこそ、彼女がこの物語で、ずっと、それだけをやってきたことでした。
「子守唄など要らぬ」と言った人が、「歌うな」と言った人が、最後には「歌え。——これは、命令だ」と言ってくれました。この人は、本当に、何ひとつ素直に言えません。
そして「なぜ憎しみが眠るのか」と問われたセレスの答えが、「寝不足です」であること。この作品の全部が、そこに入っていると思っています。
そして、鎮まった器のかたわらで、殻を失ったイゾルデが残されます。第40話で彼女が言った、あの言葉を覚えていらっしゃいますか。「その歌は、教わっておりません」。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第58話「起こす歌を、教えます」でお会いしましょう。




