第56話: 竜が、三百年前の歌を覚えていた
最初に消えたのは、足音だった。
石段を、十段ほど降りたあたり。
私の靴が石を打つ音が、急に、遠くなった。二十段目で、無くなった。
次に、衣擦れが消えた。
次に、松明の、ぱちぱちという音が消えた。火は燃えているのに、音だけが無い。
三十段目で、ブリュンヒルデ様が、剣を抜いた。
鞘走りの音が、しなかった。
彼女は、それを、じっと見ていた。
やがて、彼女は剣を石壁に打ち付けた。
火花が散った。青白い火花が、はっきりと散った。
音は、無かった。
彼女が、私を振り返る。
その唇が「奥方様」と動いた。
声は、届かなかった。
私たちは、静寂の中に、入っていた。
地下二層。
三百年前、ユーディト様が鎖に繋がれていた場所を、私たちは通り過ぎた。
石になった氷の薔薇が、松明の光を受けて、鈍く光る。
壁に刻まれた五線が、爪の跡のまま、そこにある。
その先に、工房があった。
私は、そこで、足を止めた。
鋳型が並んでいた。
三百年前、人の手が、人の喉を黙らせるための道具を鋳た場所。炉があり、鎚があり、床には、乾いた黒い染みがあった。
神の遺物など、どこにも無かった。
あるのは、人が、人にしたことの、残骸だけだった。
その中央に、イゾルデ様が、立っていた。
白い装束の上に、黒いものを纏っていた。
鎧ではなかった。硝子でもなかった。三百年ぶんの何かが、少しずつ降り積もって固まったような、鈍い、重たいもの。
器の、殻。
彼女の周りだけ、空気が、澱んでいた。
その澱みが、ゆっくりと、脈を打っている。低い音がしているはずなのに、私の耳には、何も届かない。
彼女が、口を開いた。
「セレスティア様」
――聞こえた。
この静寂の中で、その声だけが、はっきりと聞こえた。
当たり前だ。この静寂は、彼女のものだから。
「対象を、定めませんでした」と、彼女は言った。「王都全域を、対象といたしました。深度は、七。逸脱者は、現在、四名。……あなた方です」
平坦な声だった。
抑揚も、恨みも、喜びもない。
「もう、線を引く必要がございません」と、彼女は言った。「線の内側にいる者だけが、囲われます。……全員を眠らせれば、線は、消えます」
「イゾルデ様」
私は、叫んだ。
声は、出なかった。
喉は動いた。舌も動いた。息も、確かに吐いた。
なのに、音が生まれない。
「眠っていれば、誰も、誰かを囲いません」と、彼女は続けた。「眠っていれば、誰も、四つの子から名前を取り上げません。……安全です。とても、安全です」
彼女は、微笑まなかった。
悲しんでもいなかった。
彼女は、本気で、これを救済だと思っている。
それが、私には、何よりも恐ろしかった。
隣で、ジルヴェスター様が膝をついた。
殻に近づいたせいだ。血の中の本体が、殻に呼ばれている。彼の背が、震えている。声のない呻きが、口の形だけになって、こぼれていく。
歌わなければ。
今すぐ、歌わなければ。
私は、息を吸った。
――吸えなかった。
静寂が、そこにあった。
私の喉の、いちばん奥に、冷たいものが詰まっていた。
三百年前、ユーディト様が飲み下したもの。
三日前、私が飲み下したもの。
それが、形になって、私の喉を塞いでいた。
膝が折れた。
私は、石の床に、手をついた。
――お母様。
声が出ない。
息が、吸えない。
肩の上で、ルルが、必死に喉を鳴らしていた。音は、出ていなかった。
その時。
足の裏が、震えた。
石が、震えていた。
地下二層の、三百年ぶんの石が、頭の上の何かに応えて、細かく、細かく、震えている。
私は、頭を上げた。
――音ではなかった。
震えだった。
石を通して、靴の底から、膝へ、腹へ、上がってくる震え。
長い。
長い、長い震えだった。
私は、この震えを、知っていた。
王都の空で。北の丘の上で。あの晩、月を横切った大きな影が、長く、長く、悲しい声で鳴いた。
私は、その声を、どこかで聞いたことがある気がした。
――親竜だ。
丘の上にいる。静寂の外にいる。
あの大きな喉が、この丘に向かって、鳴き続けている。
そして、私は、気づいた。
震えには、拍があった。
ねむれ、ねむれ。
風のこ、嵐のこ。
私の子守唄と、同じ拍だった。
同じ、息継ぎだった。
この竜は、覚えていた。
三百年前、この丘の下で歌われた歌を。
鎖に繋がれた女が、地の底で歌っていた歌を。あの人が黙る前に、この竜は、それを聞いていたのだ。
そして三百年、鳴かずにいた。
私が地の底と共鳴したあの夜から、この竜は、丘の上を離れなかった。
――今、鳴いている。
石が、震える。
静寂が、その一点で、ひび割れる。
「ぎゃ、あ」
ルルが、鳴いた。
小さな、掠れた、頼りない声だった。
けれど、確かに、音だった。
親の震えに乗って、子が、鳴いた。
その音を追いかけるように、ブリュンヒルデ様の剣が、石壁を打った。
――かん、と、鳴った。
彼女の目が、見開かれる。
彼女は、もう一度打った。もう一度。もう一度。剣が欠けるのも構わずに、彼女は、拍を刻んだ。
ねむれ、ねむれ。
風のこ、嵐のこ。
膝をついたまま、ジルヴェスター様が、口を動かした。
声は、まだ出ない。
けれど、その唇は、私の歌を、たどたどしく、なぞっていた。
あの劇場と、同じだった。
二千人が、下手くそに歌った。音程は合わず、拍もずれ、上手な人など一人もいなかった。
それでも、みんな、目を覚ました。
私は、あの時、思い知ったはずだ。
――届かせるのは、お前一人の仕事か。
最初の音は、私が出さなくていい。
もう、出ている。
竜が。子竜が。剣が。
声の出ない夫の、動く唇が。
私の喉の奥の冷たいものが、拍に押されて、ゆっくりと、剥がれていく。
私は、両膝を立てた。
石の震えを、足の裏で受けた。
三百年ぶりに、この丘の下で、歌が始まる。
今度は、誰も、黙らない。
私は、息を吸った。
お読みいただきありがとうございます。
静寂の中では、声が出ません。喉も舌も動くのに、音が生まれない。歌うことしかできないセレスにとって、これ以上の絶望はありませんでした。三日前に飲み下したものが、形になって喉を塞いでいます。
そして、最初の音は、彼女には出せませんでした。
出したのは、竜でした。三百年前、この丘の下で歌われた歌を、あの竜は聞いていたのです。鎖に繋がれた女が、黙ると決める前に歌っていた歌を。だから三百年、丘の上を離れませんでした。
音ではなく、石を伝う震えとして届いたその拍が——ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ——セレスの子守唄と、同じ拍でした。
そこにルルの掠れた声が乗り、ブリュンヒルデの剣が拍を刻み、声の出ないジルヴェスターの唇が、たどたどしく歌をなぞります。あの劇場の二千人と、同じです。「届かせるのは、お前一人の仕事か」。
セレスは、一人ではありません。最初の音は、もう、出ています。
次回、いよいよ器と向き合います。討つのでも、壊すのでもなく——三百年、眠れなかったものに、子守唄を。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第57話「夜啼きの器に、子守唄を」でお会いしましょう。




