第55話: 二人で背負う夜
馬車は、仕立てられていた。
宿館の前庭に、城へ帰るための馬車が、三日、待たされていた。
御者は、毎朝、馬に水をやり、毎晩、諦めて厩へ戻していく。
私は、その脇を通り過ぎて、寝室の扉を開けた。
「セレスティア」
ジルヴェスター様は、起きていた。
寝台の上で、背をもたせかけて。頬が削げていた。三日で、この人は、別人のように痩せた。
「なぜ、まだ王都にいる」
「馬車には、乗りません」
「これは命令だと言った」
「はい」と、私は言った。「ですから、逆らいに参りました」
部屋の空気が、ぴりりと鳴った。
この人の魔力だ。荒れかけている。私が近づくだけで、血の中のあれが、身じろぎをする。
「セレスティア」と、彼は低く言った。「私は、器を抱いたまま死ぬ。初代がそうしたように。それでいい。三百年前から決まっていたことだ」
「決まっておりません」
「私が抱えていれば、あれは目を覚まさん。誰も歌わなければ、誰も死なん」
「王都が眠っております」
「――」
「千四百人が、眠っております」と、私は言った。「昨日より、増えました。明日も増えます。あなたが一人で我慢なさっている間、その人たちは、痩せて死ぬのです」
「では、どうしろと言う!」
彼が、初めて、声を荒げた。
窓が鳴った。晴れた空に、稲光が走った。
この人の中で、四年ぶんの嵐が、荒れている。
「お前が歌えば、私が死ぬ。私が死ねば――」
彼が、言葉を止めた。
言えなかったのだ。この人は、それを言えなかった。
「私が死ねば、お前が、殺したことになる」
――ああ。
この人は、そこを恐れていた。
自分が死ぬことではなく、私が「殺した者」になることを。
白雪の戦から、この人は、ずっとそれを背負ってきた。誰かを死なせた者が、どんな顔で夜を過ごすことになるのかを、四年、知り尽くしてきた。
だから、私にそれを渡したくないのだ。
私は、寝台の脇に膝をついた。
そして、彼の手を取った。
「ジルヴェスター様。あの雪の夜のことを、覚えていらっしゃいますか」
彼の指が、わずかに動いた。
「あなたは、悪夢の中で、ご自分を赦されました。誰にも赦してもらえなかったあなたが、ご自分で、ご自分を赦しました」
「……ああ」
「あれは、立派な夜でした」と、私は言った。「けれど、あれは、あなた一人の夜でした」
彼が、私を見た。
「あなたはいつも、一人で背負おうとなさいます。戦の罪も、家の誇りも、三百年前の器も、全部。……そして今度は、私が『殺した者』にならないように、一人で死のうとしていらっしゃる」
「それの、何が悪い」
「私が、そこにいないことです」
私の声は、静かだった。
けれど、心は、生まれて初めてというくらい、怒っていた。
「私は、あなたの妻です。生贄ではありません」
彼の喉が、鳴った。
「歌えば、あなたが削られます。それは、変わりません。楽になる道は、どこにもございません」と、私は言った。「ですから、こう申し上げます。――削られてください」
「セレス、ティア」
「あなたは、削られながら、耐えてください。私は、あなたが呻くのを聞きながら、歌います」
私は、彼の手を、両手で握った。
「痛いのは、あなただけではありません。あなたの呻き声を数えながら歌う夜が、どういうものか。……それは、私が背負います」
彼が、息を呑んだ。
「あなたが器を抱く。私が歌う。あなたが耐える。私が、それを聞く」
「――二人で、背負うのです」
長い、長い沈黙だった。
やがて。
この人が、笑った。
私が知る限り、二度目の、本当の笑い方だった。
「……ひどい妻だ」
「はい」
「夫に、削られろと言う」
「はい」
彼は、天井を見上げた。
目尻に、光るものがあった。
「セレスティア。三百年前、ユーディトは、私の先祖に、それを言えなかったのだな」
「はい」
「言ってやればよかったのだ」と、彼は言った。「あの馬鹿は、きっと、耐えたぞ」
彼は、私の手を、握り返した。
骨が軋むほど、強く。
そして、言った。
「もう一度だけ、歌え」
私の目が、熱くなった。
「……これは命令だ」
一年前、この人が、命令の形で懇願した言葉だった。
あの時は、眠りたかったからだ。
今は、違う。
この一節が、自分の体に何をするか、この人は、知っている。知った上で、命じている。
「はい」
私は、息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ――」
彼の背が、こわばった。
顎が、固く食いしばられた。額に、汗が噴いた。
けれど、彼は、呻かなかった。
部屋には、私の歌と、彼の、歯の隙間から漏れる荒い息だけがあった。
その二つは、同じ拍で、鳴っていた。
私は、歌い終えた。
彼は、震える息を、長く吐いた。
そして、擦り切れた声で、言った。
「――続けろ」
支度は、半日で整った。
「北の丘まで、道を開きます」と、ブリュンヒルデ様が言った。「兵は、耳に蝋を詰めて進みます。眠った者は、縄で引き戻します。……閣下と奥方様を、扉の前まで、必ずお届けいたします」
「王都の民は、南へ退かせる」と、エルフリーデ様が言った。「王家の名で、全門を開けさせた。眠っている者は、荷車で運び出す。……三百年前、私の家が閉めた扉だ。今度は、私が開ける側をやる」
日が落ちる頃、私たちは、北の丘に立った。
丘の下。三百年、封じられていた旧記録庫の扉が、開いている。
その奥から、風が吹いてくる。
音の、しない風が。
ジルヴェスター様が、私の隣で、剣の柄に手を置いた。
「行くぞ、セレスティア」
「はい」
私たちは、静寂の中心へ、降りていった。
お読みいただきありがとうございます。
あの雪の夜、ジルヴェスターは自分で自分を赦しました。あれは立派な夜でした。けれど——あれは、彼一人の夜でした。
この人はいつも一人で背負おうとします。戦の罪も、家の誇りも、三百年前の器も。そして今度は、セレスが「殺した者」にならないように、一人で死のうとしていました。彼が本当に恐れていたのは、自分の死ではなく、彼女に自分と同じ夜を過ごさせることだったのです。
だからセレスは、都合のいい解決策を持ってきません。「削られてください」と言います。歌えば彼は削られる。それは変わらない。ならば、彼が耐える痛みと、彼の呻き声を数えながら歌う痛みを、二人で分けて持つ。それが、二人で背負うということでした。
「言ってやればよかったのだ。あの馬鹿は、きっと、耐えたぞ」——三百年前の二人にできなかったことを、この二人がやります。
そして「もう一度だけ、歌え。……これは命令だ」。同じ台詞が、まったく違う重さで戻ってきました。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第56話「竜が、三百年前の歌を覚えていた」でお会いしましょう。




