第54話: 黙って、いったい何が救われたのですか
三日、歌わなかった。
三日で、王都は、半分死んだ。
王女殿下の館の窓から見える範囲で、灯りのついている家は、もう数えるほどしかない。市が立たない。荷馬車が動かない。井戸端に人がいない。
朝が来たのかどうかを、鐘ではなく、空の色で知る。
そんな都は、都と呼べるのだろうか。
「昨日までで、確認できただけで千四百人」
エルフリーデ様が、書付を卓に置いた。
「眠って、起きない。息はしている。痩せていく。……水を飲ませても、こぼれる」
「北の三区は、もう入れません」と、ブリュンヒルデ様が言った。「兵を入れると、兵が眠ります。縄を結んで引き戻しております」
私は、卓の上で、両手を握っていた。
喉の奥には、いつも、旋律がある。
息を吸えば、勝手にそこへ行こうとする。三日間、私はそれを、飲み下し続けていた。
肩の上で、ルルが、こてん、と首を傾げた。
この子は、待っている。
私が息を吸うたびに、耳をぴんと立てて、歌が始まるのを待つ。始まらないと分かると、しょんぼりと喉を鳴らして、私の首に額を擦り付ける。
三日で、二十回はそれをやられた。
二十一回目に、私は、泣いてしまった。
その日の午後、私は、卓に写しを広げた。
旧記録庫から持ち出した、三百年前の記録の写しだ。
断罪記録の原本。聖歌隊名簿。そして、地下二層の壁に、爪で刻まれた五線を書き写したもの。
――歌い手ユーディト、国家への奉仕を拒みし罪により断罪。
――これを庇いしヴァルトハイム公、共に罰す。東の最果てへ移す。
私は、指で、名簿の行をなぞった。
ユーディト(除籍)。
そして、その先を探した。
除籍のあと、この人がどうなったのかを。
どこにも、なかった。
三百年ぶんの記録の、どこを探しても、ユーディトという名は、二度と出てこない。
処刑された、とも書いていない。死んだ、とも書いていない。ただ、消えている。
消えたのではない。
黙ったのだ。
器を打ち込まれた男が、東の最果てにいる。自分が歌えば、あの人が苦しむ。
だから、彼女は歌わなかった。
鎖に繋がれた地下二層で、彼女は、爪で壁を掻いた。
声にできない旋律を、石に刻んだ。
私は、その五線の写しを見た。
――これが、黙った人の、遺したものだ。
喉があって、歌があって、それでも歌わないと決めた人が、三百年前、たった一人で、石を掻いていた。
私は、その紙に向かって、口を開いた。
「ユーディト様」
誰もいない部屋だった。
「あなたは、黙られました」
声が、震えた。
「――黙って、いったい何が救われたのですか」
答えは、なかった。
答えは、はじめから、そこにあった。
初代様は救われなかった。器を打ち込まれたまま、嵐の最果てで死んだ。
器も消えなかった。血に残った。子へ、孫へ、三百年ぶん、静かに降り積もって――生まれてきた子供が、眠れなくなった。
ユーディト様も救われなかった。名前ごと、記録から消えた。
歌い手も救われなかった。三百年、囲われ続けた。母は刻印を拒んで宮廷を追われ、イゾルデ様は四つで名前以外の全部を売られた。
誰も。
一人も。
黙って、三百年。
その結果が、この、音の消えた王都だ。
黙ることは、解決ではなかった。
ただ、支払いを、三百年先に送っただけだった。
――そして今、その請求書が、私たちのところに届いている。
「奥方様」
ハンナが、そっと、湯気の立つ器を置いた。
「エレオノーラ様は、刻印を、お断りになりました」
私は、顔を上げた。
「聖歌庁の刻印を入れれば、宮廷で歌い続けられました。地位も、後ろ盾も、ございました。……お断りになって、追われました」
「……ハンナ」
「わたくしは、お止めしたのです」と、ハンナは言った。「刻印くらい、と申し上げました。生きていてくださるなら、と」
その手が、震えていた。
「エレオノーラ様は、こう仰いました。『黙る歌い手を一人作れば、次の子も黙らされます』」
私の喉が、鳴った。
「あの方は、最後まで、奥方様に歌ってお聞かせでした」と、ハンナは言った。「猿轡を拒んだ喉で。……お嬢様に、あの子守唄を」
その夜、私は、ブリュンヒルデ様に聞いた。
「ブリュンヒルデ様。白雪の戦で、あなたを助けに来た時――ジルヴェスター様は、割に合うことをなさいましたか」
彼女は、少し黙った。
「いいえ」と、彼女は言った。「あの吹雪で救援に出れば、閣下も死ぬと、全員が申し上げました。正しい進言でした。……閣下は、聞き入れられませんでした」
「それで」
「それで、私は生きております」
彼女は、まっすぐに私を見た。
「奥方様。人を救う判断は、たいてい、割に合いません。……ですが、割に合わない判断だけが、人を、雪の下から掘り出します」
扉のところで、エルフリーデ様が、腕を組んで立っていた。
「セレスティア」と、彼女は言った。「三百年前、私の家は、彼女に黙れと言った。彼女は黙った。それで王家は、何も学ばずに済んだ」
殿下は、暗い王都を見た。
「黙らせることの、いちばん便利なところは、それだ。誰も、間違いに気づかずに済む」
私は、立ち上がった。
三日ぶりに、深く、息を吸った。
喉の奥で、旋律が、迎えに来た。
歌えば、あの人が削られる。
それは、変わらない。楽になる道など、どこにも無い。
けれど。
黙って三百年、誰も救われなかったという事実だけは、もう、動かせない。
私は、その答えを、知ってしまった。
「エルフリーデ様。ブリュンヒルデ様。ハンナ」
三人が、私を見た。
「私は、歌います」
声は、震えなかった。
「……三百年前と、同じ間違いは、いたしません」
お読みいただきありがとうございます。この物語が出す、答えの回です。
「歌うな」と言われた三日間、セレスは黙りました。そして、黙った先に何があるのかを、彼女は三百年前の記録の中に見つけてしまいます。
ユーディトは黙りました。黙って、記録から名前ごと消えました。初代公は器を抱いたまま最果てで死に、器は血に残り、三百年降り積もって、ジルヴェスターが生まれてきました。歌い手は囲われ続け、エレオノーラは猿轡を拒んで追われ、イゾルデは四つで名前以外の全部を売られました。
黙って、三百年。誰ひとり救われていません。
黙ることは解決ではなく、支払いを三百年先に送っただけでした。そして請求書は、いま届いています。
だからセレスは、精神論では立ちません。三百年という具体的な事実の上に立ちます。歌えば愛する人が削られる——それは何ひとつ変わらないまま、それでも彼女は選び直します。
「割に合わない判断だけが、人を雪の下から掘り出します」。ブリュンヒルデのこの一言が、私はいちばん好きです。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第55話「二人で背負う夜」でお会いしましょう。




