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第53話: 「歌うな、セレスティア」

 その人は、眠っていた。


 四年ぶりに眠った、あの朝と同じ顔で。

 けれど、これが眠りでないことは、私にはすぐに分かった。


 王都の宿館の寝台。ジルヴェスター様は、目を閉じたまま、時折、指を痙攣させる。汗が、こめかみを伝っていく。呼吸は浅く、速い。


 その体の奥から、低い音がしていた。


 鐘の内側にいるような、あの音だ。

 旧記録庫の地の底で聞いた共鳴が、今は、この人の胸の中から鳴っている。


 窓の外では、王都の一区画が、また静まっていた。

 鐘が鳴らない。犬が吠えない。人の声がしない。

 イゾルデ様の静寂が、通りを一本ずつ、飲み込んでいる。


「……奥方様」


 ハンナが、震える声で言った。


「閣下を、お願いいたします」


 言われるまでもなかった。

 私は彼の手を両手で包んで、息を吸った。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 いつもの一節。この一年、毎晩、歌ってきた歌。


 ――そして、彼が、呻いた。


「……っ、ぐ」


 私は、歌をやめた。


「ジルヴェスター様?」


 彼は答えない。けれど私が黙った瞬間、胸の奥の低い音が、わずかに退いた。


 気のせいだと思いたかった。

 私はもう一度、歌った。


「今日の痛みは、夜が――」


 彼の背が、反った。


 寝台が軋んだ。喉から、押し殺した声が漏れた。敷布を掴んだ指が、白くなった。

 そして、胸の奥の音が、大きくなった。


 私は、両手で口を押さえた。


「……奥方様」


 ブリュンヒルデ様が、扉のところに立っていた。

 この人が、剣の柄から手を離しているのを、初めて見た。


「お気づきに、なりましたか」


「ブリュンヒルデ様」


「私は、閣下の脈を数えておりました」と、彼女は言った。「奥方様がお歌いになっている間だけ、閣下の脈は乱れます。息継ぎの拍で、乱れます。……お歌いをやめられると、収まります」


 硬い声だった。

 硬くしていなければ崩れる人の、声だった。


「三度、確かめました。三度とも、同じでございました」


 私には、分かってしまった。


 器は、二つある。

 旧記録庫の地下工房に残された、殻。三百年ぶんの怨嗟が溜まった容れ物。イゾルデ様が纏っているのは、そちらだ。


 そして、本体。

 三百年前、ユーディト様を庇った初代様に打ち込まれ、ヴァルトハイム家の血に眠り続けたもの。


 ――それは、この人の中にある。


 私の歌は、あれに届いてしまう。

 城の者を眠らせすぎた夜も、地の底が私の子守唄と同じ拍で震えた時も、そうだった。私の力が強くなったのではない。あれが、目を覚ましかけているのだ。


 だから。


 私が歌えば歌うほど、あれは目を覚ます。

 そして、あれが目を覚ますたびに、器を抱いたこの人が、削られる。


 私の子守唄は、この人を眠らせるための歌だった。

 その同じ歌が、今、この人を殺しにいく。


「……セレスティア」


 掠れた声だった。


 ジルヴェスター様が、目を開けていた。

 暗い金の瞳。初めて会った日と、同じ色。眠らない者の目だ。


「ジルヴェスター様! お気を確かに――」


「聞いていた」と、彼は言った。「意識は、あった。……歌のたびに、腹の底を素手で掻き回されるような心地がした」


「申し訳、ございません」


「謝るな」


 体を起こそうとして、彼は失敗した。

 私が支えると、その腕は、驚くほど熱かった。


「ブリュンヒルデ」


「はっ」


「今夜のうちに、馬車を仕立てろ。セレスティアを、城へ帰す」


 部屋の空気が、止まった。


「――閣下」


「これは命令だ」


「なりません」と、私は言った。「王都が、静寂に沈みかけています。ここで私が歌わなければ、誰が」


「誰かが歌えばいい」


「私の歌でなければ、あれは」


「そうだ」


 彼は、私を見た。


「お前の歌でなければ、あれは目を覚まさない」


 私は、何も言えなかった。


「セレスティア。お前が王都で歌えば、王都は救われるかもしれん。だが、その一節ごとに、私の中のあれが、深く目を開ける」と、彼は言った。「初代は、器を打ち込まれたまま死んだ。器は消えなかった。血に残った。……私の番が来ただけだ。それだけのことだ」


「それだけのことでは――」


「セレスティア」


 彼が、私の手首を掴んだ。


 その手は、震えていた。

 命令の形をしたその手が、私の骨が軋むほど、強く。


「お前の歌が、私を殺す」


 窓の外で、また一つ、鐘が鳴らなくなった。


「……頼む」


 この人が、生涯で二度と言わないと思っていた言葉だった。


「歌うな」


 一年前の、あの日を思い出した。


 嵐の城。灰色の執務室。窓を打つ稲光を背にして、この人は、私を見もせずに言った。


 ――子守唄など要らぬ。お前の歌ごときで、この呪いが解けると思うな。


 あの時、私は傷つかなかった。

 この人の目の奥に、孤独が見えたから。だから、残りますと言えた。


 今、この人は、同じことを言っている。


 子守唄など要らぬ、と。

 歌うな、と。


 まったく同じ言葉で、まったく違う理由から。


 一年前、この人は、私の歌を要らないと言った。

 今、この人は、私の歌を、誰よりも欲しがっている。


 欲しがったまま、要らないと言っている。


 私の手首を掴んだ指が、ゆっくりと力を失った。

 彼はまた、意識を手放した。胸の奥の低い音だけが、鐘の内側で鳴り続けている。


 私は、その手を握ったまま、動けなかった。


 喉の奥に、旋律があった。

 この一年、この人のために、毎晩、迎えに行った旋律が、そこにあった。


 私は、それを飲み込んだ。


 部屋は、静かだった。

 窓の外も、静かだった。


 王都でいちばん静かなのは、私の喉の奥だった。


お読みいただきありがとうございます。


三百年前に仕組まれた器の構造が、いちばん残酷な形で噛み合いました。セレスの歌は器に共鳴する。器の本体は、ジルヴェスターの血の中にある。つまり——彼女が歌えば歌うほど、あれは目を覚まし、抱えている彼が削られていきます。


彼女の子守唄は、この一年、彼を眠らせるためだけにありました。その同じ歌が、いま彼を殺しにいきます。


そして、この人は同じ言葉を言いました。「子守唄など要らぬ」——一年前、灰色の執務室で、私を見もせずに言ったあの言葉を。まったく同じ言葉で、まったく違う理由から。欲しがったまま、要らないと言っている。


これは三百年前、ユーディトが呑まされたのと、同じ禁止でもあります。


歌えば、愛する人が死ぬ。歌わなければ、王都が眠る。セレスの喉の奥が、王都でいちばん静かな場所になりました。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第54話「黙って、いったい何が救われたのですか」でお会いしましょう。

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