第52話: 静寂の歌姫、器を纏う
朝が来ても、鐘は、鳴らなかった。
王都の鐘楼は丘の上にある。夜明けと共に、六つ撞くのが決まりだった。
私は、宿館の窓から、それを見ていた。
撞き手の男が、綱を引いている。腰を入れて、確かに、引いている。
鐘は揺れている。舌が内側を打っている。
――音がしなかった。
男はもう一度引いた。もう一度。もう一度。
しまいには、鐘にしがみつくようにして、何度も、何度も。
王都の朝は、静かなままだった。
鳥が落ちてきたのは、その直後だった。
一羽。二羽。
屋根から、庭木から、ぱたり、ぱたりと、石畳に。
私は、駆け寄って、一羽を、拾い上げた。
……温かかった。
死んではいなかった。
小さな胸が、ゆっくりと、上下していた。
――眠っていた。
飛びながら、眠ってしまったのだ。
それから、人が、眠りはじめた。
パン屋の主人が竈の前で。
井戸端の女が、桶を提げたまま。
路地の子どもが、輪回しの棒を握ったまま、笑った顔で。
誰も、倒れて痛がってはいなかった。悲鳴も無かった。
ただ、静かに、そこで、眠っていた。
それが、いちばん、恐ろしかった。
線があった。
通りのちょうど真ん中。
こちら側では、人が走り、叫び、荷車が軋んでいる。
半歩、向こう。
そこから先には音が無い。
「南の三区画、無音になりました」
ブリュンヒルデ様が、駆け戻ってきた。
「東の水路まで、線が来ております。……二刻で一区画です」
「王都はいくつの区画がある」と、ジルヴェスター様が言った。
「――三十二にございます」
殿下は、その日のうちに、王都の退避を始めさせた。
王家の名で、門を全部開かせ、街道へ人を流した。眠ってしまった者は、荷車に積んで運んだ。
誰も目を覚まさなかった。
「セレスティア」と、エルフリーデ様が言った。「イゾルデと、話せるか」
「……分かりません」
「行きなさい。私は人を逃がす。……それしか、できない」
殿下の唇が、噛みしめられて、白くなっていた。
三百年前、断罪した側の家に生まれた人だった。
その人が今、断罪された側の歌い手に、頭を下げていた。
私は線の手前に立った。
中央広場だった。
王都でいちばん広い場所。市が立ち、噴水があり、いつも人でいっぱいの場所。
噴水は、まだ、水を噴いていた。
水は跳ねていた。飛沫が、日を弾いていた。
――音が無い。
水の落ちる音が、無い、というだけで、あんなに美しかった噴水が、悪い夢のように見えた。
その中央に、黒い人影が、立っていた。
白い装束の上から、黒いものが、鎧のように、彼女を包んでいた。
鱗のような無数の鎚の跡。逆さの鐘のような胸当て。
三百年前、地下の工房で打たれた型が、そのままの形で、人の体に、貼り付いていた。
首から上だけが、そのままだった。
傷ひとつ無い。
あの、作り物めいた、美しい顔。
そして灰色の瞳。
「イゾルデ様」
私は線の手前から呼んだ。
彼女がこちらを見た。
そして、線のところまで、歩いてきた。
「セレスティア様」
声が聞こえた。
彼女の周りには音が無いのに、その声だけが、私の耳に届いた。
――ああ。この人は、静寂の、中心なのだ。
「イゾルデ様。……何をなさっているのですか」
「眠らせております」
平坦な声だった。何ひとつ、変わっていなかった。
「深度は、一律。逸脱はございません」と、彼女は言った。「対象は王都です」
「王都、全部をですか」
「はい」
「そのあとはどうなさるのです」
「王国です」
私の背が、冷えた。
「イゾルデ様それは――」
「セレスティア様」
彼女は私の言葉を遮った。
この人が私の言葉を遮ったのは、初めてだった。
「わたくしは皆を眠らせます」
黒い殻の下で、その喉が、動いた。
「眠っていれば、誰も誰かを囲いません」
私は息を、呑んだ。
この人は怒っていない。
恨んでも、いない。憎んでも、いない。
私を殺しに来たのでも、王都を滅ぼしに来たのでもない。
この人は――救いに、来たのだ。
四つの歳から二十年、囲われ続けた人が、たった一つ、思いついた方法で。
「眠っている者は、支度金を納めません」と彼女は言った。「眠っている者は、名簿を作りません。眠っている者は四つの子を買いません」
「眠っている者は誰にも歌えと言いません」
「……眠っている者は誰にも、歌うなと言いません」
最後の一言で、私の膝が、笑った。
――この人は。
この人は、昨日、御前会議で、見ていたのだ。
私が歌い、ジルヴェスター様が膝をつくのを。
歌えば、いちばん大切な人が、削られていくのを。
そしてこう思ったのだ。
誰も歌わなければいい、と。
誰も、起きていなければいい、と。
「イゾルデ様。それでは誰も何も」
「はい」
彼女は、言った。
「何もございません。……静かです」
その灰色の瞳に、憎しみは、ひとかけらも無かった。
――それが、私は、何よりも、恐ろしかった。
「――お帰りください」
彼女は、そう言って、背を向けた。
「ここはあと二刻で静かになります」
「イゾルデ様!」
私は線を越えようとした。
その時。
彼女が息を吸った。
黒い殻が、鳴った。
鐘の内側の音だった。三百年ぶんの、喉の音。歌えなかった声。吸ったまま止められた息。
それがいっせいに開いた。
線が動いた。
石畳の上を、境目が、こちらへ、滑ってくる。
ブリュンヒルデ様が、私の襟を掴んで、後ろへ投げた。
私は転がった。
転がりながら聞いた。
――背後で、音がした。
それが、その場所に残った、最後の音だった。
重いものが石畳に倒れる音。
「ジルヴェスター様!」
彼が倒れていた。
仰向けに、大の字に、両腕を投げ出して。
目を開けたまま。
その胸の上に、黒いものが、鱗のように、透けて見えていた。
――皮膚の、下だった。
三百年、ヴァルトハイム家の血に眠っていたもの。
初代公に打ち込まれ、使われないまま、澱み続けていたもの。
広場の中央で、殻が、鳴いている。
それに応えるように。
彼の中の、本体が。
――目を、覚ました。
息の詰まる回だったと思います。ここまでありがとうございます。
鐘が、鳴りません。撞き手は必死に綱を引いていて、鐘は確かに揺れていて、舌は内側を打っている。それでも音がしない。この一枚の絵が書きたくて、この章を設計しました。
飛びながら眠ってしまった小鳥は、温かいままです。イゾルデは誰も殺していません。彼女の歌は、人を殺す歌ではないのです。ただ、眠らせ、音を奪うだけ。だからこそ、噴水が音もなく水を噴いている中央広場が、悪い夢のように見えます。
彼女の宣言。
「わたくしは、皆を眠らせます。眠っていれば、誰も、誰かを囲いません」
この人は、怒っていません。恨んでも、憎んでもいません。四つの歳から二十年囲われ続けた人が、たった一つ思いついた救い方が、これだったのです。眠っている者は、支度金を納めない。名簿を作らない。四つの子を買わない。誰にも歌えと言わないし——誰にも、歌うなとも言わない。
彼女は、御前会議を見ていました。セレスが歌えばジルヴェスターが膝をつくところを、あの灰色の瞳で、ずっと見ていたのです。
憎しみが、ひとかけらも無いこと。それが、この敵の、一番怖いところです。
殻の声に応えて、血の中の本体が目を覚ましました。
殻を纏うイゾルデに息を呑んだ方、【評価】をひとつ。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第53話「『歌うな、セレスティア』」でお会いしましょう。




