第51話: 王都から、音が消えていく
旧記録庫の扉は、開いていた。
三百年、閉じられていた扉。
私たちが二日前に開けて、そして、閉め忘れた扉。
ブリュンヒルデ様が松明を掲げ、私たちは、地の底へ降りた。
地下二層。
石になった氷の薔薇が、暗がりで、鈍く光っていた。
三百年前、ここに歌い手が居た証。
鎖の跡の残る壁。その石肌に、爪で刻まれた、五本の線。
――そして、その壁の、突き当たり。
私たちが、二日前に見落としていたものが、あった。
低い戸口だった。
大人が屈まなければ通れないほどの、狭い戸。書架の陰になって、松明の光が届いていなかった。
その戸が、開いていた。
降りた先は、部屋というより、穴だった。
……いいえ。工房でした。
炉があった。三百年、火の入っていない炉。
金床があった。鎚があった。鏨があった。壁には、大小の鋳型が並んでいた。
床には、削り屑が、積もった時のままの形で、残っていた。
私は、それを見て、膝が震えた。
――道具だ。
神様が降ろしたものでもない。遠い時代の遺物でもない。
誰かが、ここで、鎚を振るって、作ったのだ。
人が、人を黙らせるための道具を。仕事として。おそらくは、賃金をもらって。
部屋の中央に、それは、据えられていた。
黒い、鐘のようなものだった。
人の胴ほどの高さ。逆さにした鐘とも、鎧の胸当てを打つための型とも見えた。
表面は、無数の鎚の跡で、鱗のようにでこぼこしている。
これが、器を作った、型。
この中で、あれは、形になった。
そして、型は、三百年、ここに残された。
中身を抜かれたまま。空っぽのまま。
私が近づくと、耳の奥が、鳴った。
鐘の内側にいるような、低い、低い震え。
王都に着いた夜から、ずっと私を追いかけてきた、あの共鳴。
けれど、こんなに近くで聞いたのは、初めてだった。
――声だ。
旋律ではなかった。言葉でもなかった。
ただ、無数の、喉の音。
歌おうとして、歌えなかった音。
息を吸って、吸ったまま、止められた音。
三百年ぶんのそれが、この空っぽの型の中に、澱のように、溜まっていた。
その前に、白い装束が、立っていた。
「イゾルデ様」
彼女は、振り返らなかった。
「――静かですね」と、彼女は言った。
「イゾルデ様。……帰りましょう」
「どこへ、でしょうか」
私は、答えられなかった。
聖歌庁は、封じられた。宿舎も、教師も、記録も。
この人には、家が無い。姓が無い。四つの歳に、全部、捨てさせられた。
登録の制度が停まった、と王は仰った。
私は、それを、自由だと思った。
――この人にとっては、違ったのだ。
「わたくしは、第一級歌唱者です」と、彼女は言った。「登録番号は、一。当庁の、最初の一人です」
「当庁が、ございません」
平坦な声だった。
「登録が、ございません。番号が、ございません。……では、わたくしは、なんでしょうか」
「あなたは、イゾルデ様です」
「名前だけでは、対象を、定められません」
彼女は、そう言った。
――対象。入眠。深度。逸脱。
この人は、そういう言葉でしか、世界を測れないように、育てられていた。
その物差しを、私たちが、今日、折ったのだ。
良かれと、思って。
「では、私が」と、私は言った。「私が、あなたを、置きます」
「――」
「城へいらしてください。ヴァルトハイム城に、部屋はいくらでもございます。ハンナがおります。ルルもおります。……あなたは、笑い方をご存じないと仰いましたね。うちの子竜は、うるさいですよ」
私は、一歩、近づいた。
「起こす歌も、お教えします。教わることは許されていない、と仰いました。……もう、許す人が、おりませんの」
「ですから、勝手に、覚えてくださいませ」
彼女は、長いこと、黙っていた。
そして、初めて、振り返った。
灰色の瞳が、私を見た。
その瞳の奥で、何かが、揺れていた。
――たぶん、それが、この人の生涯で、初めての「望み」だった。
「……逸脱です」
彼女は、そう言った。
揺れが、消えた。
「わたくしは、四つの歳に、望みを提出いたしました」と、彼女は言った。「提出したものは、返りません。規定にございます」
「そんな規定は、もう」
「わたくしの中に、ございます」
彼女は、黒い型に、手を伸ばした。
「イゾルデ様!」
「セレスティア様」
その指が、型の縁に、触れた。
「わたくしは、ここに、居ります」
――ぱき、と。
乾いた音がした。三百年、誰も触れなかったものが、割れる音だった。
澱が、動いた。
喉の音が、いっせいに、彼女の指先へ、流れ込んでいく。
三百年、歌えなかった声が、ようやく、歌える喉を見つけたように。
白い装束の裾が、揺れた。
その足元から、黒いものが、水のように、這い上がっていく。
「イゾルデ様――!」
私は、手を伸ばした。
ジルヴェスター様が、私の腰を掴んで、引き戻した。
そして、音が、消えた。
炉の中で、灰の落ちる音が、消えた。
ブリュンヒルデ様の松明が、爆ぜる音を、失った。
私の心臓の音が、消えた。
私は、叫んだ。叫んだ、つもりだった。
喉が震えているのは、分かる。息が漏れているのも、分かる。
――なのに、何も、聞こえない。
松明の火は、燃えていた。明るかった。
ただ、この世から、音だけが、抜き取られていた。
「静寂の歌姫」。
……ああ。そういうことでしたか。
あの称号は、この人が物静かだから、ついたのではない。
この人の周りから、世界が、音を失うから、ついたのだ。
私たちが地上へ這い出た時、王都は、夕暮れだった。
夕餉の刻。
王都で、一番、音の多い時刻。
北の丘から、街が、見渡せた。
――丘の下の、一区画。
その一角だけが、静かだった。
人の声が、しない。荷車の音が、しない。犬が、鳴かない。
煙は、まだ、真っ直ぐに上がっている。竈の火は、消えていない。
ただ、音だけが、無い。
そして、私が見ている前で。
隣の区画の、音が、消えた。
お読みいただきありがとうございます。第6章、はじまりました。
前回、王は登録の制度そのものを停止しました。歌い手は誰のものでもない。……セレスにとって、それは自由でした。ですが、四つの歳に姓も家族も望みも捨てさせられ、「登録番号一」だけを与えられて生きてきた人にとっては、違ったのです。
「当庁が、ございません。……では、わたくしは、なんでしょうか」
私たちは良かれと思って、彼女の物差しを折ってしまいました。セレスは必死で手を伸ばします。城へ来てください、ハンナがいます、ルルがいます、勝手に覚えてくださいませ、と。イゾルデの瞳は、たしかに一度、揺れました。あれが、たぶん彼女の生涯で最初の「望み」でした。
それを、彼女自身が「逸脱です」と切り捨てます。もう、聖歌庁はどこにもありません。規定は、彼女の中にだけ、残ってしまったのです。
そして地下の工房。神の遺物でも、古代の秘宝でもありませんでした。炉があり、金床があり、鎚と鏨があり、削り屑が積もったままでした。人が人を黙らせる道具を、誰かが仕事として、たぶん賃金をもらって、ここで打ったのです。私は、そこが一番、恐ろしいと思っています。
行き場を失った歌い手に残されていた唯一の居場所が、三百年ぶんの怨嗟が澱んだ、空っぽの型でした。
王都から、音が消えていきます。一区画ずつ。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第52話「静寂の歌姫、器を纏う」でお会いしましょう。




