第50話: 認定は、いたしません
私は、歌うのを、やめていた。
それでも、あの人が楽になるまでに、二十を数えた。
ジルヴェスター様の呼吸が、少しずつ、戻ってくる。ブリュンヒルデ様が肩を支え、ハンナが水を運んできた。
彼は、水を飲まなかった。膝をついたまま、王を見上げていた。
「陛下」と、彼は言った。掠れた声だった。「これが、ヴァルトハイム家の、三百年にございます」
誰も、答えなかった。
高い天井の下で、大臣たちは、身動きひとつしなかった。
紙の上でなら、この方々は、何とでも言えたはずだ。共鳴の証明はできない。因果は測れない。偶発的な事故です、と。
けれど。
――見てしまった者は、もう、見なかったことには、できない。
王が、立ち上がった。
白髪の混じった、痩せた方だった。エルフリーデ様の兄君。
……この方も、眠れていないのだ、と私は思った。肘掛けを叩いていた、あの拍。あれは、眠れない人の拍だった。
「聖務卿ラインハルト・フォン・ケルバー」
「はっ」
「そなたに問う。三年前、副本を書き改めたのは、そなたの手か」
「私の手にございます」
彼は、認めた。あっさりと。
「文言を変えたのは」
「私の判断にございます」
部屋が、ざわめいた。
――なぜ、認めるのか。
私には、分からなかった。
いや、分かってしまった。
この人は、恥じていないのだ。
「陛下。三百年前の記録は、危険にございました。『歌は人を従わせる道具ではない』。ユーディトの言葉が、そのまま残っておりました。あれを読んだ歌い手は、必ず、同じことを言い出します」
「そなたは、記録官であろう」
「はい」
「記録官の職務は、何か」
ラインハルト卿は、初めて、答えなかった。
白い手袋が、わずかに、握られた。
王は、静かに言った。
「聖務卿を、罷免する」
その言葉が、部屋の端まで、ゆっくりと届いていくのが分かった。
「記録改竄、公文書偽造、及び人身の売買につき、王立法院へ移送し、訴追せよ。……聖歌庁の帳簿は、すべて封じよ。名簿も、だ」
「陛下」と、卿は言った。「名簿を封じれば、王国の歌い手は、明日から一人も歌えなくなります」
「そうだな」
王は、頷いた。
「――ゆえに、登録の制度そのものを、停止する」
どよめきが、上がった。
大臣の一人が、立ち上がりかけた。
「名簿は、公にする」と、王は続けた。「そこに載る者が、いかにして載ったか。誰が、いくら納めたか。すべて、王都に貼り出せ」
悲鳴のような声が、上がった。
アマーリエだった。
「お待ちください! わたくしは、証言いたしましたわ! 陛下、わたくしは、洗いざらい――」
「そなたの証言は、記録した。その働きは、量刑で酌む。……だが、そなたが名を偽ったことは、消えぬ」
「そんな」
「アマーリエ・フォン・ハーゲン。歌唱者の名を騙り、王都で報酬を得た。ハーゲンの家は、既に爵位を失っておる。……残るのは、そなた自身の名だけだ」
妹は、床に、へたり込んだ。
「光の歌姫」の名は、一年前に消えた。
「第四級歌唱者」の名は、今日、消えた。
貼り出される名簿に、彼女の名前は、残る。
金貨四十枚と、並んで。
――それは、名が残るのではない。
これから百年、王都の掲示板で、あの子は「買った女」として残るのだ。
彼女が、こちらを見た。
「……お姉様」
その顔が、歪んだ。
嘲りが、まだ、そこにあった。最後の一枚の衣のように。
「お姉様は、さぞ、お気持ちがよろしいでしょうねえ」
私は、妹の前に、膝を折った。
目線を、合わせた。
「アマーリエ」
「なんですの」
「あなたは、歌が、お好きでしたか」
彼女は、答えなかった。
答えられなかったのだと、思う。
……たぶん、一度も、考えたことがなかったのだ。
好きかどうかなど、あの家では、誰も聞いてくれなかったから。
「私は、あなたに、歌を返してくれとは申しません」と、私は言った。「あなたが取り上げたのは、私の歌では、ありませんでしたから」
「あなたが取り上げられたのは、あなたの歌です。……お父様に」
「――黙りなさいよ」
「はい」
私は、立ち上がった。
「では、黙ります。……もう、あなたに申し上げることは、ございません」
それが、私が妹に言った、最後の言葉になった。
連れ出されていく靴音が、遠ざかった。
それから、王が、私を見た。
「セレスティア」
「はい」
「そなたの認定だが」
私は、頭を下げた。
――ここまでだ、と思った。
制度が停まれば、認定する者もいない。私は生涯、「登録外の歌い手」のままだ。王国では歌えない。
覚悟は、していた。
「認定は、いたしません」
私は、目を閉じた。
「――なぜなら」と、王は言った。「認定する者が、もう、おらぬからだ」
私は、顔を上げた。
「王家は、三百年、歌い手を認定してきた」と、王は言った。「認定するとは、認定せぬ者を作ることだ。認定せぬ者を作るとは、その者から歌を取り上げることだ」
「余の先祖は、そうやってユーディトから歌を取り上げた。……そして、庇った男に、器を打ち込んだ」
王は、卓の羊皮紙を見た。
「余は、認定せぬ。誰も、認定せぬ。……歌い手は、誰のものでもない」
私は、その言葉を飲み込むのに、しばらく、かかった。
認定されない。
認められない、のではない。
――認める、という行いそのものが、消えたのだ。
誰も、私を「本物」だと言ってくれない。
誰も、私を「偽物」だとも、言えない。
私の歌は、今日から、ただの私の歌になった。
誰の許しも要らず、誰の許しも下りない。
子守唄が、子守唄に、戻っただけだった。
……ああ。
私は、母を思った。
二十年前、宮廷を追われた人。刻印を拒んで、名を消された人。
お母様。
あなたが欲しかったのは、これですか。
認められることでは、なくて。
――誰にも、決められないことでしたか。
ラインハルト卿は、最後まで、動じなかった。
衛兵に両脇を挟まれても、背筋は伸びたままだった。手袋の皺ひとつ、乱れていなかった。
彼は、卓の記録の束に、手を伸ばした。閉じようとして、衛兵に押さえられた。
この人が、記録を閉じられずにいるのを、私は、初めて見た。
彼は、私の前で、足を止めた。
「セレスティア様」
私は、身構えた。
罵倒でも、呪詛でも、来るなら受けようと思った。
けれど、この人の声には、やはり、熱が無かった。
「あなたは、正しい」
……え。
「あなたが正しいことは、初めから存じておりました」と、彼は言った。「登録外の歌い手殿。あなたの歌は、人を癒す。当庁の制度は、人を売る。……比べるまでも、ございません」
「では、なぜ」
「では、誰が」
彼は、卓の羊皮紙を見た。
「制度は、あれを閉じ込めるために、作られたのです」と、彼は言った。「歌い手を囲うのは、目的ではございません。手段です。歌い手が歌わなければ、あれは目を覚まさない。……三百年、当庁は、それだけをしてまいりました」
私は、動けなかった。
「私は、罷免されました。制度は、停まりました。名簿は、燃えるでしょう」
「結構なことです」
彼は、初めて、私の目を、まっすぐに見た。
「――では、誰が、あれを止めるのです」
答えは、無かった。
彼は、それきり、何も言わずに、連れ出されていった。
白い手袋が、扉の向こうへ、消えた。
私は、その言葉の意味を、まだ、量りかねていた。
だから、気づくのが、遅れた。
「セレスティア」
ジルヴェスター様の声だった。
「イゾルデが、居ない」
私は、振り返った。
部屋の隅。ラインハルト卿の背後に、ずっと立っていた場所。
白い装束が、あった場所。
そこには、誰も、居なかった。
彼女がいつ出ていったのか、誰も、覚えていなかった。
足音を、誰も、聞いていなかった。
――当たり前だ、と私は思った。
あの人の周りには、いつも、音が無かった。
衛兵が駆け込んできたのは、その直後だった。
息を切らして、床に膝をついて、報告した。
「北の丘! 旧記録庫の扉が――」
私は、既に、駆け出していた。
開いている、と衛兵は言った。
三百年、閉じられていた扉。
二日前、私たちが、開けた扉。
誰も、閉めなかった扉。
お読みいただきありがとうございます。中盤の山、聖務卿ラインハルト、失脚です。
罷免、記録改竄と人身売買で訴追、聖歌庁の帳簿は封印、そして登録制度そのものの停止。名簿の公表で、アマーリエとハーゲン家の残党も、これで完全に消えました。彼女に残ったのは「金貨四十枚と並んで王都の掲示板に貼り出される名前」だけです。
「あなたが取り上げられたのは、あなたの歌です。……お父様に」——セレスは最後まで声を荒げませんでした。赦してもいません。ただ、もう何も言うことがないだけです。
そしてタイトルの回収。「認定は、いたしません」。認められないのではなく、認めるという行いそのものが消えました。歌い手は、誰のものでもない。二十年前に刻印を拒んで宮廷を追われたセレスのお母様が本当に欲しかったものは、たぶん、これだったのだと思います。
ですが、ラインハルト卿の最後の一言が、すべてを裏返します。制度は、歌い手を囲うためではなく——あれを目覚めさせないために、作られていた。彼は悪辣な男でしたが、彼だけが、三百年、あれを見張っていたのです。
「では、誰が、あれを止めるのです」
その問いに、答えられる者はいませんでした。そして振り返ると、白い装束が消えていました。
次回から第6章「夜啼きの器に、子守唄を」。第2部の、最後の章に入ります。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第51話「王都から、音が消えていく」でお会いしましょう。




