第49話: 三百年前の歌を、王の御前で
御前会議の間は、咳ひとつ響かないほど静かだった。
正面の壇に、王が座っている。その足元の卓に、地の底から運び出された羊皮紙が並んでいた。
断罪記録の原本。黒く塗り潰された、除籍の欄。そして、聖歌庁の副本。
私の隣には、ジルヴェスター様。部屋の反対側に、ラインハルト卿がいた。
卿の背後には、白い装束が一つ。
イゾルデ様は、床の一点を見つめたまま、まばたきすら、しなかった。
「聖務卿」と、エルフリーデ王女殿下が言った。「この二つの記録は、同じ事件を記している。だが、中身が違う」
「存じております、殿下」
「原本には『歌い手ユーディト、国家への奉仕を拒みし罪により断罪』とございます。副本には『病により除籍』と。……三百年前の断罪は、当時の判断にございます。私が改竄したのでは、ございません」
「では、伺います。なぜ、副本の羊皮紙が、三年前のものなのですか」
「王立文書院に鑑定させました。羊皮紙も墨も、三年以内のものです。……三百年前の写本が、なぜ、三年前に作られているのです」
「保存のための、書き写しにございます。筆写は人の手仕事。文言の丸めは、当時の作法でもございました」
「では、これは」
殿下が、一枚の紙を掲げた。
三つの筆跡が、並べて写し取られている。
「左が、原本の断罪記録。中が、三年前の副本。……そして右が、あなたが去年、王へ提出した年次報告書です」
中と右が、同じだった。
線の入り方も、払いの撥ね方も、同じ癖で曲がっていた。
「ケルバー家は、三代にわたる王家の記録官です」と、殿下は言った。「記録を守る家が、記録を書き換えた」
ラインハルト卿は、目を伏せた。
――崩れる、と思った。
けれど、彼は言った。
「筆跡の鑑定は、鑑定人の主観にございます」
「文言の相違は、当庁に伝わる別の写本に拠ったもの。……その写本は、去年の整理で処分いたしました。規定にございます」
この人は、嘘をつかないのだ、と私は思った。
嘘をつく必要が、無いのだ。
規定が、代わりに、すべてを飲み込んでくれるから。
「――では、生きている者に、伺いましょう」と、殿下が言った。「アマーリエ・フォン・ハーゲン」
扉が開いた。
入ってきたのは、私の妹だった。
「光の歌姫」の頃の華やかな衣装ではない。地味な鼠色のドレスだった。
私の前を通るとき、彼女は、一度だけ、こちらを見た。
「……お姉様」
嘲りの色は、まだ、はっきりとあった。
けれどその下に、私が生まれて初めて見る色が、混じっていた。
怯えだ。
「そなたは、聖歌庁の登録名簿に、第四級歌唱者として載っている」と、殿下が言った。「認定審査を、受けたか」
沈黙が、長かった。
彼女の唇が、震えて、開いた。
「受けて、おりませんわ」
部屋が、ざわめいた。
「では、どうやって載った」
「支度金を、納めましたの」
「金貨で、四十枚ですわ。父が、用意いたしました。……聖歌庁の方が、仰いましたの。支度金を納めれば、名簿に載せてくださると。歌わなくとも、構わないと」
震える手が、封筒を差し出した。
――この子は、最後の最後で、自分の首を差し出したのだ。助かるために。
それでも私を見る目だけは、まだ「お姉様」のままだった。
「――当庁の名において、認めます」
ラインハルト卿の声だった。
「支度金の制度は、実在いたします。歌い手の育成には費用がかかります。……対価なき献金は、集まりません」
「その制度が、人を売ったのです」と、殿下が言った。
「では、廃しますか」
卿の声は、少しも高くならなかった。
それが、かえって恐ろしかった。
「廃せば、明日から、誰が歌うのです。制度は必要です。歌い手は危険です。……制御できぬ歌が何をするか、この方々は、五日前に劇場でご覧になったはずだ」
「登録外の歌い手殿。あなたは、二千人を眠らせかけた」
私は、答えられなかった。
証明できない。あの時と、同じだ。
紙の上では、この人が、正しい。
「セレスティア」と、殿下が言った。「歌いなさい」
私は、懐から、一枚の紙を取り出した。
地下二層の壁から、写し取ったもの。爪で刻まれた、五本の線と、点。
三百年前、鎖に繋がれた人が、爪が割れるまでかけて、石に刻んだ歌。
「聖務卿。これを、ご存じですか」
「――存じません」
「そうでしょうね」と、私は言った。「これは、記録では、ありませんから」
「あなた方が、焼けたことにした場所の壁です。……ユーディト様は、歌を、記録の外に隠されました。三百年、あなた方に見つからないように」
「証明できますか」
「いいえ」
私は、微笑んだ。
この人は、いつも、そう仰る。
「証明は、いたしません。……歌います」
私は、息を吸った。
歌詞は、無かった。刻めたのは、旋律だけだった。
だから私は、言葉のないまま、歌った。
最初の一節で、部屋の空気が、変わった。
――知っている、と思った。
拍が、同じだった。
息継ぎの場所が、同じだった。
母が私に歌ってくれた子守唄と、三百年前の壁の歌は、同じ場所で息を吸う歌だった。
王の指が、玉座の肘掛けを、そっと叩いていた。拍を、取っていた。
美しい歌ではなかった。
子守唄は、いつでも、美しくはない。ただ、優しいだけだ。
白い装束が、動いた。
イゾルデ様の指が、そっと、拍を取っていた。自分でも気づいていない様子で。
卿が、彼女を見た。
指が、止まった。
――そして、私の後ろで、音がした。
ごとり、と。
「ジルヴェスター様!」
彼が、片膝をついていた。
私は、歌うのをやめた。
やめても、遅かった。
彼の周りの空気が、鳴っていた。四年間、城の窓を鳴らし続けた、あの低い唸り。
彼は、胸を掻きむしった。爪が、上衣を裂いた。
「ジルヴェスター様!」
「……歌え」と、彼は言った。
「何を仰って」
「歌え、と、言っている」
噛みしめた唇から、血が滲んでいた。
彼は、笑おうとしていた。
一度も自分を赦さなかったこの人が、私の歌に削られながら、笑おうとしていた。
「これが……答えだろう」
私は、悟った。
三百年前と、同じだ。
歌い手が歌えば、庇った男が苦しむ。
だからユーディト様は、歌うのをやめた。
――そして今、私が歌えば、この人が苦しむ。
同じ構造が、王の目の前で、そのまま、動いていた。
誰も、動けなかった。
大臣たちも、王も、ただ、床に膝をついた公爵を見ていた。
その静寂を、殿下の声が、破った。
「――ご覧なさい」
エルフリーデ王女殿下は、王の前に進み出て、深く頭を下げた。
そして、顔を上げずに、言った。
「これが、私たちがしたことです」
お読みいただきありがとうございます。御前会議、前半でした。
ラインハルト卿は、嘘をつきません。嘘をつく必要がないからです。規定が、代わりに全部を飲み込んでくれる。筆跡が一致しても「鑑定は主観」、文言が違えば「作法」、証拠の写本は「規定により処分済み」。この人と戦うのが本当に嫌になるのは、彼が一度も声を荒げないところだと思います。
だから、決め手は書類ではありませんでした。三百年前、鎖に繋がれた人が、爪が割れるまでかけて石に刻んだ、言葉のない旋律。記録の外に隠された歌。ユーディトは、聖歌庁が絶対に見つけられない場所に、それを置いていったのです。
そして、その歌は、セレスの子守唄と同じ場所で息を吸う歌でした。
——ですが、歌ってしまった代償が、あまりに残酷でした。歌い手が歌えば、庇った男が苦しむ。三百年前とまったく同じことが、王の目の前で起きてしまいます。エルフリーデ王女の「これが、私たちがしたことです」は、王家の人間にしか言えない一言でした。
次回、いよいよ裁定が下ります。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第50話「認定は、いたしません」でお会いしましょう。




