第6話:悪夢の中で、彼が呼んでいた名前
眠れるようになっても、彼の夜が、完全に安らかになったわけではなかった。
その夜、私の歌の合間に、ジルヴェスター様は、初めて寝言を漏らした。
「……すまない……間に合わな、かった……」
苦しげに歪んだ横顔。
握りしめられた拳。
眠りの底で彼は何かと戦っていた。
私はいつもの調子で歌い続けようとして、できなかった。
旋律が、彼の呼吸と合わなくなっていたのだ。
これまでの夜は、歌のほうへ呼吸が寄ってきた。
今夜は違う。
彼の息は速く浅く、私の歌が追いつく前に、次の苦しみへ行ってしまう。
「……逃げろ……雪が……っ、皆を連れて……!」
その声は悲鳴に近かった。
窓の外の嵐が彼の心の乱れに呼応して、再び唸りを上げ始める。
「閣下……っ、大丈夫です、ここにいます」
私は慌てて歌を強めた。
彼の冷えた手を握り、額の汗を拭い、旋律でその心をくるむように。
すると嵐が少しずつ引いていき、彼の呼吸も、ゆっくりと落ち着いていった。
けれど最後に――彼は、消え入りそうな声で、ひとつの名を呼んだ。
「……エレ、ノーラ……」
私の指先が、ぴくりと止まった。
(エレオノーラ……?)
それは、私の――亡き母の名だった。
歌が止まったことに、彼は気づかなかった。
止まっても、もう嵐は戻ってこなかった。
その名を呼んだだけで、この人の中の何かが、やっと降りたのだ。
私は歌を再開できないまま、暗い部屋で、ひとつのことだけを考えていた。
母の名を、この人はどこで覚えたのだろう。
◇◇◇
翌朝。
私は、思い切って尋ねてみることにした。
大広間へ下りていくと、ジルヴェスター様はもう席に着いていた。
いつものように粥を口に運んでいるけれど、その手はどこか重そうだ。
匙が椀の縁に当たる音が、いつもより多い。
――昨夜のことを、この人は覚えているだろうか。
覚えていて黙っているのだろうか。
私は自分の椅子まで歩き、腰を下ろし、それから思い直して立ち上がった。
長すぎるテーブルを回り込み、彼のすぐ隣の席まで歩いていく。
止められるかと思った。
止められなかった。
「閣下。……昨夜、うなされていらっしゃいました」
彼の手が止まった。
「夢をご覧になっていたのですね。雪と、誰かを、逃がそうとしている夢を」
「……聞いていたのか」
彼は長い沈黙のあとで、静かに語り始めた。
「四年前。この辺境を、未曾有の吹雪が襲った。『白雪の戦』と、民は呼ぶ。魔獣の大群が、吹雪に紛れて村々を襲った。私は救援に向かった。……だが間に合わなかった」
彼の暗い金の瞳が、遠くを見る。
「私の魔力をもってすれば、嵐を割り、道を開けたはずだった。だが力を使えば使うほど、嵐は私の制御を離れ、味方すら巻き込んで荒れ狂った。……結局、私は多くの部下と、避難民を見殺しにした」
「閣下……」
「憐れむな」
初めて、彼の声が鋭くなった。
けれどその鋭さは、私にではなく、自分自身へ向いていた。
憐れまれる資格などない、と本気で思っている声だった。
「その夜から私は眠れなくなった。眠れば、あの吹雪の中で死んでいった者たちが、夢に現れる。『なぜ助けなかった』と私を責める。……そして、その悪夢に呼応して、私の魔力が暴走する。私の不眠は罰だ。当然の報いだ」
私は胸が締めつけられた。
この人は、ただ眠れないのではない。
眠ることを自分に「許して」いなかったのだ。
罪を抱えたまま、たった一人で四年も。
四年。
長いのか短いのかも、私にはよく分からなかった。
屋根裏で夜を数えるのを、私はとうにやめていたから。
「……一つ、お尋ねしてもよろしいですか」と、私は震える声で言った。「夢の中であなたは、一人の女性の名を呼んでいらっしゃいました。……『エレオノーラ』と」
彼は、虚を突かれたように、私を見た。
「……知らぬ。私はその名に、覚えがない。だが――」
彼はこめかみを押さえた。
「ずっと昔。まだ私が呪いも嵐も知らなかった、幼い頃。一度だけ聞いた歌があった。心が凪ぐあたたかな歌だ。私はずっとそれを探していた。……そして、お前の歌は、あの歌と、同じ旋律なのだ」
部屋の空気が、しんと静まった。
なぜ、見ず知らずの彼が、母の名を呼ぶのだろう。
なぜ、私の子守唄が、彼の幼い日の記憶と、同じ旋律なのだろう。
母のことを、私はほとんど覚えていない。
顔も、声も。
覚えているのは、この旋律だけだ。
だから今日まで、この歌は私が勝手に作ったものだと思っていた。
寂しい夜に、自分を慰めるために。
――誰にも自慢できない子の、ささやかな作り物なのだと。
作り物であってくれたほうが、よかったのかもしれない。
母のものだとしたら、この歌には、私の知らない来歴がある。
その答えは、まだ霧の中にあった。
けれど私の中でひとつの確信だけが、静かに芽生え始めていた。
(お母様。あなたは、本当は……何者だったの)
物語の芯に、初めて手が届いた回でした。
「白雪の戦」で救えなかった人たち。そして眠りの底で呼ばれた、エレオノーラという名。セレスの母の名です。
ここで気をつけて書いたのは、セレスが母をほとんど覚えていないということでした。顔も、声も知りません。覚えているのは旋律だけ。だからこそ彼女は今日まで、あの子守唄を自分の作り物だと思ってきました。作り物であってくれたほうがよかったのかもしれない、という一行を、この回のいちばん奥に置いています。
一方で、ジルヴェスター様は「その名に覚えがない」と言います。名前は知らないのに、旋律だけをずっと探していた。二人が同じ歌の両端を持っていたことに、まだどちらも気づいていません。
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次回、第7話「実家から届いた、一通の招待状」でお会いしましょう。




