↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/76

第6話:悪夢の中で、彼が呼んでいた名前

 眠れるようになっても、彼の夜が、完全に安らかになったわけではなかった。


 その夜、私の歌の合間に、ジルヴェスター様は、初めて寝言を漏らした。


「……すまない……間に合わな、かった……」


 苦しげに歪んだ横顔。

 握りしめられた拳。

 眠りの底で彼は何かと戦っていた。


 私はいつもの調子で歌い続けようとして、できなかった。

 旋律が、彼の呼吸と合わなくなっていたのだ。


 これまでの夜は、歌のほうへ呼吸が寄ってきた。

 今夜は違う。

 彼の息は速く浅く、私の歌が追いつく前に、次の苦しみへ行ってしまう。


「……逃げろ……雪が……っ、皆を連れて……!」


 その声は悲鳴に近かった。

 窓の外の嵐が彼の心の乱れに呼応して、再び唸りを上げ始める。


「閣下……っ、大丈夫です、ここにいます」


 私は慌てて歌を強めた。

 彼の冷えた手を握り、額の汗を拭い、旋律でその心をくるむように。


 すると嵐が少しずつ引いていき、彼の呼吸も、ゆっくりと落ち着いていった。

 けれど最後に――彼は、消え入りそうな声で、ひとつの名を呼んだ。


「……エレ、ノーラ……」


 私の指先が、ぴくりと止まった。


(エレオノーラ……?)


 それは、私の――亡き母の名だった。


 歌が止まったことに、彼は気づかなかった。

 止まっても、もう嵐は戻ってこなかった。

 その名を呼んだだけで、この人の中の何かが、やっと降りたのだ。


 私は歌を再開できないまま、暗い部屋で、ひとつのことだけを考えていた。

 母の名を、この人はどこで覚えたのだろう。


 ◇◇◇


 翌朝。

 私は、思い切って尋ねてみることにした。


 大広間へ下りていくと、ジルヴェスター様はもう席に着いていた。

 いつものように粥を口に運んでいるけれど、その手はどこか重そうだ。

 匙が椀の縁に当たる音が、いつもより多い。


 ――昨夜のことを、この人は覚えているだろうか。

 覚えていて黙っているのだろうか。


 私は自分の椅子まで歩き、腰を下ろし、それから思い直して立ち上がった。

 長すぎるテーブルを回り込み、彼のすぐ隣の席まで歩いていく。

 止められるかと思った。

 止められなかった。


「閣下。……昨夜、うなされていらっしゃいました」


 彼の手が止まった。


「夢をご覧になっていたのですね。雪と、誰かを、逃がそうとしている夢を」


「……聞いていたのか」


 彼は長い沈黙のあとで、静かに語り始めた。


「四年前。この辺境を、未曾有の吹雪が襲った。『白雪の戦(しらゆきのいくさ)』と、民は呼ぶ。魔獣の大群が、吹雪に紛れて村々を襲った。私は救援に向かった。……だが間に合わなかった」


 彼の暗い金の瞳が、遠くを見る。


「私の魔力をもってすれば、嵐を割り、道を開けたはずだった。だが力を使えば使うほど、嵐は私の制御を離れ、味方すら巻き込んで荒れ狂った。……結局、私は多くの部下と、避難民を見殺しにした」


「閣下……」


「憐れむな」


 初めて、彼の声が鋭くなった。

 けれどその鋭さは、私にではなく、自分自身へ向いていた。

 憐れまれる資格などない、と本気で思っている声だった。


「その夜から私は眠れなくなった。眠れば、あの吹雪の中で死んでいった者たちが、夢に現れる。『なぜ助けなかった』と私を責める。……そして、その悪夢に呼応して、私の魔力が暴走する。私の不眠は罰だ。当然の報いだ」


 私は胸が締めつけられた。

 この人は、ただ眠れないのではない。

 眠ることを自分に「許して」いなかったのだ。

 罪を抱えたまま、たった一人で四年も。


 四年。

 長いのか短いのかも、私にはよく分からなかった。

 屋根裏で夜を数えるのを、私はとうにやめていたから。


「……一つ、お尋ねしてもよろしいですか」と、私は震える声で言った。「夢の中であなたは、一人の女性の名を呼んでいらっしゃいました。……『エレオノーラ』と」


 彼は、虚を突かれたように、私を見た。


「……知らぬ。私はその名に、覚えがない。だが――」


 彼はこめかみを押さえた。


「ずっと昔。まだ私が呪いも嵐も知らなかった、幼い頃。一度だけ聞いた歌があった。心が凪ぐあたたかな歌だ。私はずっとそれを探していた。……そして、お前の歌は、あの歌と、同じ旋律なのだ」


 部屋の空気が、しんと静まった。


 なぜ、見ず知らずの彼が、母の名を呼ぶのだろう。

 なぜ、私の子守唄が、彼の幼い日の記憶と、同じ旋律なのだろう。


 母のことを、私はほとんど覚えていない。

 顔も、声も。

 覚えているのは、この旋律だけだ。


 だから今日まで、この歌は私が勝手に作ったものだと思っていた。

 寂しい夜に、自分を慰めるために。

 ――誰にも自慢できない子の、ささやかな作り物なのだと。


 作り物であってくれたほうが、よかったのかもしれない。

 母のものだとしたら、この歌には、私の知らない来歴がある。


 その答えは、まだ霧の中にあった。

 けれど私の中でひとつの確信だけが、静かに芽生え始めていた。


(お母様。あなたは、本当は……何者だったの)

物語の芯に、初めて手が届いた回でした。


「白雪の戦」で救えなかった人たち。そして眠りの底で呼ばれた、エレオノーラという名。セレスの母の名です。


ここで気をつけて書いたのは、セレスが母をほとんど覚えていないということでした。顔も、声も知りません。覚えているのは旋律だけ。だからこそ彼女は今日まで、あの子守唄を自分の作り物だと思ってきました。作り物であってくれたほうがよかったのかもしれない、という一行を、この回のいちばん奥に置いています。


一方で、ジルヴェスター様は「その名に覚えがない」と言います。名前は知らないのに、旋律だけをずっと探していた。二人が同じ歌の両端を持っていたことに、まだどちらも気づいていません。


謎の入口を面白がってくださった方は、【評価】での応援をいただけると励みになります。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第7話「実家から届いた、一通の招待状」でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。