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第5話:「もう一度だけ、歌え」——命令の形をした懇願

 それから夜は少しずつ、形を変えていった。


 最初の数日、ジルヴェスター様は、あくまで「儀式だ」と言い張っていた。

 寝室を訪れ、仏頂面で寝台に座り、私が歌い、彼が眠る。

 目が覚めれば、礼も言わずに出ていく。


 けれど日ごとに、その順番の中へ、名前のつかないものが増えていった。


 三日目には、寝室に椅子が一脚増えていた。

 背もたれに布を張った、座り心地のよさそうな椅子だ。

 四日目には、その脇に燭台が置かれた。

 私が歌詞の紙を持ち込んだことなど、一度もないのに。


 誰が運ばせたのかを、私は訊かなかった。

 訊けば「儀式だ」と言われるに決まっていたからだ。


 けれど五日目の夜のことだった。


 いつもより遅い時刻に、彼は寝室を訪れた。

 その顔はここ数日でいくらか生気を取り戻していたはずなのに、ひどく強張っていた。


 髪が濡れていた。

 浴びてきたのだろうけれど、袖口には洗い落としきれなかった黒い染みが残っている。

 部屋に入ってきたとき、外の匂いが一緒に入ってきた。

 雪と、鉄の匂いだった。


「閣下? お加減が……」


「……今日は領境で魔獣の群れが出た」


 彼は低く言った。


「私が出れば片はついた。だが戦えば魔力を使う。魔力を使えば……夜の嵐が、ひどくなる」


 なるほどと私は理解した。

 彼の呪いは魔力を使うほどに、その夜の暴走を激しくするのだ。

 だから彼は四年もの間、力を振るうことすら、できる限り避けてきたのだろう。

 民を護る公爵でありながら、護るための力が、そのまま己を蝕む毒になる。

 なんという、残酷な呪いだろう。


 ――そして、たった今この人は、その毒を自分から飲んできたのだ。

 領境に群れが出たと聞いて、出ないという道もあったはずなのに。

 出れば夜が来る。夜が来れば城が軋む。

 それでも彼は馬に乗った。


 四年のあいだ、この人はずっとそうやって選んできたのだろう。


「今夜は、危ない。お前は別室で休め。巻き込まれる」


 彼は私を遠ざけようとした。

 昨夜までとは逆だった。

 私を生贄として扱っていたはずの人が、私を守ろうとしている。


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「閣下。あなたが嵐と戦うのなら、私はその嵐に子守唄を歌います。それが私の務めですから」


「……死ぬかもしれんぞ」


「では、最後までおそばで歌わせてくださいませ」


 彼はしばらく私を見つめていた。

 暗い金の瞳の奥で、何かが激しくせめぎ合っているのが、わかった。

 誰も近づけまいとする孤独と、誰かにそばにいてほしいという、隠しきれない渇望と。


 やがて彼は寝台に身を横たえ、天井を見上げたまま、絞り出すように言った。


「……もう一度だけ歌え」


 それは命令の形をしていた。

 けれどその声はかすかに震えていた。

 命令の形でなければ、この人は何ひとつ頼めないのだ。

 四年、そうやって生きてきた人なのだ。


「これは命令だ。……もう一度だけ、私に聞かせろ」


 もう一度だけ。

 その「だけ」が、毎晩繰り返されていることを、私たちは二人とも、気づかないふりをしていた。


 私は彼の枕元に寄り添い、そっと歌い始めた。


 その夜、嵐は来た。

 窓を割らんばかりの暴風が城を揺らし、稲妻が幾度も部屋を白く灼いた。

 けれど私が歌い続ける限り、その嵐は、彼の眠りに届くことはなかった。


 喉が痛くなった。

 声が掠れて旋律が途切れそうになるたび、握られた手に力がこもるのが分かる。

 起きているのではない。

 眠ったまま、歌が止まりかけたことに気づいているのだ。


 だから私は、掠れたままで歌った。


 私の歌はまるで荒れ狂う海の上に張られた、薄い天蓋(てんがい)のようだった。

 その下でだけ、彼は、波に飲まれずに眠ることができた。


 明け方近く、ようやく嵐が凪いだ頃。

 眠る彼の唇が、かすかに動いた。


「……ありがとう」


 目を閉じたまま、彼は、確かにそう言った。

 起きているときには、決して言えない言葉を。


 誰に向けた礼なのかは、言わなかった。

 私に、なのか。

 嵐が退いたことに、なのか。

 それとも、朝が来ることに、なのか。


 どれでもよかった。

 この人の口から「ありがとう」という言葉が出たこと自体が、きっと、四年ぶりだったのだから。


 私はこみ上げるものを必死にこらえながら、ただ歌い続けた。


 ◇◇◇


(私の歌は無能なんかじゃ、ないのかもしれない)


 生まれて初めて、私はそう思った。


 「ハーゲンの恥」と罵られ、馬小屋の子守唄と嗤われてきた、この歌。

 それが今、たった一人の人を、四年間の地獄から救い出している。


 窓の外が白み始める。

 穏やかな朝の光が、眠る彼の頬を照らしていた。


 握られたままの私の手は、すっかり冷えていた。

 彼の手のほうが、温かい。

 初めて会った夜には、逆だったのに。


 その横顔を見つめながら、私は、自分の喉にそっと手を当てた。


 この歌は、どこから来たのだろう。

 寂しい夜に、勝手に出てきた。それだけしか、私は知らない。

第5話をお届けしました。


「もう一度だけ歌え。……これは命令だ」。この人は、命令の形でなければ何ひとつ頼めません。四年、そうやって生きてきたからです。そして「だけ」が毎晩繰り返されていることに、二人とも気づかないふりをしている。依存が始まる音を、私はこういう形で書きたいと思っていました。


三日目に椅子が増え、四日目に燭台が置かれます。誰が運ばせたのかをセレスが訊かないのは、訊けば「儀式だ」と言われるに決まっているからです。


眠ったまま漏れた「ありがとう」。誰に向けた礼なのかは書いていません。どれでもよかった、というセレスの受け取り方のほうを、私は書きたかったのです。


この夜の一言にやられた方は、どうか【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第6話「悪夢の中で、彼が呼んでいた名前」でお会いしましょう。

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