第4話:眠れた朝の、不器用すぎる「礼」
朝まで眠れた――。
その一夜は、城の空気を確かに変えた。
翌朝、私が目を覚ますと、寝室の扉の前に、見慣れぬものが置かれていた。
ふかふかの上質な毛織りのショールだった。
深い藍色に銀の糸で雪の結晶が縫い取られている。値の張る、見るからに温かそうな品だ。
「……これは?」
廊下を通りかかった侍女頭のハンナに尋ねると、彼女は口元を押さえて、こらえきれないように笑った。
「閣下が、夜明け前にご自分で物置から探してこられたのですよ。『あの娘の着ているものは薄すぎる。風邪をひかれては困る』と。……四年お仕えして、閣下が誰かのために何かを探される姿を見たのは、初めてでございます」
私はショールをそっと胸に抱いた。
羽織ってみると、私には少しだけ大きかった。
肩から落ちて、裾が踵に触れる。
埃を払った跡があった。刷毛ではなく、手のひらで払った跡だ。
物置で見つけて、そのまま持ってきたわけではないらしい。
ありがとう、とも、すまない、とも、彼は一言も言わなかった。
ただ黙って扉の前に置いていったのだ。
(不器用な方……)
そう思ったら、なぜだか鼻の奥がつんとした。
その日の食卓も、変化に満ちていた。
大広間の長い長いテーブル。その端と端に、私とジルヴェスター様は向かい合って座っていた。
いつもなら冷えたパンと水だけだった私の前に、湯気を立てる粥と、焼きたての白パン、それに蜂蜜が並んでいる。
「……食え」
彼は私を見ずに、ぼそりと言った。
「痩せすぎだ。歌うにも体力が要るだろう」
テーブルは、端から端まで声が届かないほど長い。
だから彼のぼそりとした声は、本当は私まで届いていなかった。
届いていないと分かっていて、彼はもう一度言い直しはしなかった。
代わりに給仕の者が静かに近づいてきて、「閣下が、召し上がれと」と小声で伝えてくれた。
「……はい。ありがとうございます」
歌うにも体力が要る。
つまり彼は、また私に歌ってほしいのだ。
けれど決して「歌ってくれ」とは言わない。
その不器用さが、なぜだか、おかしくて、少しだけ愛おしかった。
◇◇◇
食事のあと私は城の中を案内された。
石造りの冷たい城。けれどよく見れば、あちこちに人の暮らしの温もりが残っていた。
使用人たちは皆、最初こそ「生贄の令嬢」を遠巻きにしていたが、主が四年ぶりに眠ったという話が広まると、その目に隠しきれない希望の色が宿るようになった。
厨房の脇を通ったとき、年かさの下働きの女が私を見て手を止めた。
何か言おうとして言えずに、深く頭を下げる。
握ったままの麺棒が、小刻みに震えていた。
この城の人たちは四年ぶりの朝を、まだ信じきれずにいるのだ。
城の奥、日当たりのよい塔の根元で、私は不思議なものに出会った。
「きゅう……?」
小さな灰色の竜の子だった。
翼はまだ頼りなく、瞳はくりくりと丸い。人懐こく私の足元にすり寄ってくる。
「あら、可愛い……」
「お気をつけください、奥方様。その子竜は『ルル』と申しまして、人見知りが激しく、私たちにもなかなか懐かぬのですが――」
ハンナの言葉が終わらぬうちに、ルルは私の膝にぴょこんと飛び乗り、喉を鳴らした。
私はくすりと笑い、いつもの癖で、小さく鼻歌を歌った。
するとルルはとろんと目を細め、私の腕の中ですうすうと眠ってしまった。
温かかった。
思っていたよりずっと重くて、腹のあたりが規則正しく上下している。
――ああ、これは。
昨夜、寝台の縁で聞いたのと、同じ形の音だ。
「……まあ」
ハンナが目を丸くしている。
「奥方様。あなた様のお歌は……まるで、荒ぶる心を、片端から鎮めていくようでございますね」
その言葉を私はただの世辞だと思って、聞き流した。
まさかそれが私自身の「血」にまつわる、最初の手がかりだったとは、知る由もなく。
◇◇◇
その夜。
寝室で待っていると、また扉が開いた。
「……今夜も儀式だ」
ジルヴェスター様は、相変わらず仏頂面でそう言った。
けれど昨夜のように手を出せ、とは言わなかった。
ただ寝台の縁に腰を下ろし、所在なげに視線をさまよわせている。
私はくすりと笑いそうになるのをこらえて、口を開いた。
「閣下。お休みになる前に一曲、いかがですか」
彼はぴくりと肩を動かした。
そしてしばしの沈黙のあと――ほんの少しだけ、こちらに体を傾けて、言った。
「……ああ。聞いてやらんこともない」
聞いてやらんこともない、なんて。
本当は誰よりも、眠りを欲しているくせに。
私が寝台の縁に腰を下ろすと、彼はほんのわずか、身体を横へずらした。
一人ぶんの隙間が空いた。
空けたことには、どちらも触れなかった。
私はショールを肩にかけ直し、そっと歌い始めた。
今夜の城には嵐の代わりに、穏やかな旋律だけが満ちていった。
お読みいただきありがとうございます。
この作品の公爵様は、言葉では甘くなりません。甘さは全部、行動と、その痕跡のほうに出します。今回でいえば――ショールの埃を、刷毛ではなく手のひらで払った跡。長すぎる食卓の向こうから、届かないと分かっていて言い直さなかった「食え」。そして、寝台の縁に空いた、一人ぶんの隙間。
空けたことには、どちらも触れませんでした。触れたら終わってしまう類のものなので、この二人はしばらく、こういう距離のまま進みます。
子竜のルルも、ここで初登場です。人見知りの激しい子が一発で寝てしまう――今はまだ可愛いだけの場面ですが、この歌が何に効くのかを示す最初の目印でもあります。
不器用な「礼」に笑ってくださった方は、【評価】をひとつ置いていってください。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第5話「『もう一度だけ、歌え』——命令の形をした懇願」でお会いしましょう。




