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第3話:氷の城に、初めての寝息が落ちる

 歌い続けて、どれほど経った頃だろう。


 ふと握られていた手の力が、ゆっくりと緩んだ。


 顔を上げるとジルヴェスター様が、寝台の縁に座ったまま、こくりと頭を傾けていた。


「……閣下?」


 返事はない。

 代わりに規則正しい、ごくかすかな寝息が聞こえてきた。


 すう、すう、と。


 その音があまりに小さかったので、私は自分の呼吸を止めた。

 止めてみて初めて分かった。

 この部屋には、ほかに音が何もない。


 窓を叩く風も、天井の梁の呻きも無かった。

 城じゅうを満たしていたはずの嵐が、この人の寝息ひとつに、席を譲っていた。


 私は息を呑んだ。


(眠って……いらっしゃる……?)


 あれほど苦悶に歪んでいた顔から、苦痛が消えていた。

 眉間に刻まれていた深い皺が解け、固く結ばれていた唇が、わずかにほどけている。

 この人にも、こんなに無防備な顔があったのだ。

 まるで嵐に置き去りにされた、迷子の子どものような。


 私はそっと彼の体を寝台に横たえた。

 毛布をかけてあげようと手を伸ばし――ふと、躊躇(ためら)う。

 もし、目を覚ましてしまったら。また、あの嵐が戻ってきてしまったら。


 けれど。

 私は静かに歌を続けながら、彼の額にかかった、銀の筋の混じる黒髪を、指先でそっと払った。


「……どうか、今夜だけは。痛みのない夜を」


 窓の外は、いつのまにか、嘘のように静かだった。

 あれほど荒れ狂っていた嵐は跡形もなく、雲の切れ間から、白い月が顔を出している。

 この城に来て初めて見る、穏やかな夜空だった。


 ◇◇◇


 私は椅子に腰かけたまま、まどろんでいたらしい。


 窓から差し込む朝の光に、目を覚ます。

 慌てて寝台を見ると、そこには――まだ、ジルヴェスター様が眠っていた。


 夜が明けても、嵐は来なかった。

 城は信じられないほど静かで、平和だった。


 遠くで、金物を落とす音がした。

 それきり、しんとした。

 落とした人が息を殺したのだと、音の消え方で分かった。

 この城では朝の物音までが、ずっと嵐を起こさないように気を遣ってきたのだ。


 やがて長い睫毛が震え、暗い金の瞳がゆっくりと開く。


「……っ」


 彼は跳ね起き、しばらく呆然と部屋を見回していた。

 自分の手を見つめ、窓の外の青空を見つめ、それから――傍らに座る私を見つめた。


「……朝だと?」


 掠れた声だった。


「はい、閣下。よくお休みになっていらっしゃいました」


「眠った……? この、私が……?」


 彼は震える手で、自分の顔を覆った。

 その肩が、かすかに揺れている。


「四年だ」


 絞り出すような声だった。


「四年間、私は一度も、朝まで眠ったことがなかった。眠れば嵐が城を壊し、人を傷つける。……だから眠ることを自分に許してこなかった」


 彼はゆっくりと、私に向き直った。

 昨夜までの人を寄せつけない冷たさは、そこになかった。

 ただ信じられないものを見るような、すがるような眼差しがあった。


「……君は何者だ」


「セレスティア・フォン・ハーゲン。ただの……『子守唄しか歌えない』、無能な令嬢でございます」


「無能……?」


 彼はふっと笑った。

 初めて見る、その人の笑みだった。痛みに慣れすぎた人の、不器用で、少しだけ泣きそうな笑み。


「無能が四年ぶりに私を眠らせたというのか。……ならば、この世の有能とは、いったい何の役に立つ」


 私は何も言えなかった。

 ただ胸の奥が、じわりと熱くなった。

 生まれて初めて、「歌」を、誰かに必要としてもらえた気がして。


 その時、扉が乱暴に叩かれた。


「閣下! ご無事ですか、閣下――……っ!?」


 飛び込んできた騎士団長ブリュンヒルデが、寝台の上の主を見て、凍りついた。

 穏やかに朝を迎えた、その姿に。


「……閣下が眠って、いらっしゃる……。城が壊れていない……」


 彼女は信じられないという顔で、私と公爵を交互に見た。

 その瞳にみるみる涙が盛り上がっていく。


「四年だ、ブリュンヒルデ」と、ジルヴェスター様は静かに言った。「四年ぶりに私は朝を見た。……この娘の歌で」


 ブリュンヒルデは、その場に膝をつきそうになるのを、辛うじてこらえていた。

 背筋を伸ばし直し、剣の柄に手を添え、いつもの硬い声で「……失礼いたしました」と告げる。

 けれど部屋を出ていくとき、扉を閉める手つきがひどく静かだった。

 まだ眠っているかもしれない人を、起こさないための静けさだった。


 そしてその日。

 もう一つ、城の外で動き出したものがあった。


 王都のハーゲン伯爵家に、一通の書状が届いたのだ。

 差出人は、ヴァルトハイム公爵家。

 文面はただ一行――「貴家が当家へ寄越した娘について、追って正式に問い合わせる」。


 もっとも、それを私が知るのはずっとあとのことだ。

 この朝の私が知っていたのは、たった一つ。

 寝台から下りたジルヴェスター様が、誰にともなく「筆と紙を」と言ったことだけだった。


 それが何を意味するのかは、分からなかった。

 ただその声を聞いたブリュンヒルデ様が、扉の前で一度だけ、口の端を上げたのを見た。

四年ぶりの寝息の回でした。


金物を落とした人が、音の消し方だけで「息を殺した」と分かる――このくだりが、今回いちばん気に入っています。眠れない主人のいる城では、朝の物音までが遠慮するようになる。呪いの重さは、当人よりも周りの人の癖のほうに出るものだと思っています。


なお、この朝、城の外でもう一つ動き出したものがあります。ジルヴェスター様が誰にともなく「筆と紙を」と言った、あれです。この人はまだ礼の言い方を知りません。知らないまま最初に選んだのが、実家への問い合わせだった、という話でもあります。


「無能が四年ぶりに私を眠らせたというのか」。この台詞が刺さった方は、ぜひ【ブックマーク】を。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第4話「眠れた朝の、不器用すぎる『礼』」でお会いしましょう。

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