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第47話: 四つの歳に、捨てさせられたもの

 ハンナが王都に着いたのは、翌日の夕刻だった。


 ブリュンヒルデ様が、城へ早馬を出していたのだ。

 小さな旅行鞄を一つ提げて、宿館の玄関に立った侍女頭は、私の顔を見るなり、泣きそうな顔をした。


「奥方様。お痩せになりました」


「ハンナ」


「エレオノーラ様のことでお呼びと伺いました」


 私は、頷いた。


 そして昨夜のことを話した。書庫に来たイゾルデ様のこと。音の出なかった唇のこと。そして――赤く灼けた、喉の刻印のこと。


 ハンナの手から、鞄が落ちた。


「……ハンナ?」


「奥方様」


 彼女の顔から、血の気が引いていた。


「私はあれを一度だけ、見たことがございます」

「二十年前でございます。宮廷で」


 あの夜、城でハンナが震えながら伝えてくれた、母の言葉が蘇る。


 ――ハンナ。あれは歌ではありません。あれは猿轡です。


「私はあの言葉を、たとえ話だと思っておりました」と、ハンナは言った。「美しい歌で人を黙らせる。そういう意味の、比喩なのだと」


 彼女は首を振った。


「違いました。……あれは比喩では、ございません」


 ハンナは、自分の喉に、手を当てた。


「刻印を入れられた歌い手は、聖歌庁の許しなく歌うと喉が灼けます」


 部屋の空気が、動かなくなった。


「宮廷に若い歌い手がおりました」と、ハンナは言った。「名はもう覚えておりません。……いいえ。嘘でございます。名は名簿から消されました。私が覚えていても、どこにも、ございません」

「あの娘は庭で鼻歌を歌っておりました」


 ハンナの声が、掠れた。


「それだけでございます。誰かに聞かせようとしたのでもない。ただ、洗濯物を干しながら、口ずさんでいただけで」


「――焦げる匂いがいたしました」


「その三日後でございます。エレオノーラ様のお部屋に、聖歌庁の方がお見えになりました。『登録の証を、お入れいたします』と」

「エレオノーラ様はこう仰いました」


 ハンナは背筋を伸ばした。

 二十年前の主人の声を、正確に伝えようとするみたいに。


「『私は誰の許しも要らずに歌います』」


 扉の外で、床が鳴った。


 ジルヴェスター様が、廊下に立っていた。

 入ってはこなかった。

 女たちの話す部屋に入るものではないと、この人は思ったのだ。


 ――そのくせ、その場を離れもしなかった。


 胸の奥が、熱くなった。


「……それで母は」


「はい。その日から宮廷でのエレオノーラ様のお立場が、変わりました」と、ハンナは言った。「そしてその半年後でございます。ファルク楽長が、『鎮魂の歌い手は危険な力である』という上申を、お出しになりました」


 私はようやく、繋がった。


 宮廷楽長ファルク・ヴェルナー。母を潰した張本人。

 私は、あれを、あの人の個人的な野心だと思っていた。芸術の権威が、自分より優れた歌い手を妬んで、消した。そういう話だと。


 違った。


 ファルクは、手だった。

 母は、芸術に潰されたのではない。


 母は――刻印を、拒んだのだ。


 二十年前も、三百年前も、同じだった。従わない歌い手は消える。喉に焼き鏝を入れさせるか、口を閉じさせるか。選ばなかった者を、名簿から削るのだ。


 その夜。


 宿館の裏庭に、白い装束が立っていた。


 気づいたのは、ルルが窓辺で低く唸ったからだった。


 雨が降っていた。

 彼女は、傘も差さず、ただ、立っていた。


 私は階段を駆け下りた。ハンナが、燭台を持って追ってきた。


「奥方様いけません」


 ハンナが私の袖を掴んだ。

 けれど、その手は、すぐに緩んだ。


 彼女も見てしまったのだ。

 白い襟の隙間から覗く、喉の付け根を。


 赤黒く爛れていた。


「イゾルデ様」


「……登録外の歌い手」


 城で初めて会った日の、あの呼び方だった。


 この人は、後退している。「セレスティア様」と呼んでいた自分を、消そうとしている。


「昨夜のことは、記録に残しました。『逸脱、一件。処置済み』」と、彼女は言った。「これで無かったことになります」


「無かったことになりません」


「なります」と彼女は言った。「記録がそう言えば、そうなります」


 雨が、彼女の髪を、額に貼り付けていた。


「イゾルデ様。あなたはなぜ、雨の中に立っていらっしゃるのですか」


「……」


「処置は済んだのでしょう。記録にはそう書いたのでしょう。ならば、あなたは、宿舎で眠っているはずです」


 彼女は答えなかった。


「四つの歳に姓を捨てたと仰いましたね」


「はい」


「ほかに何を捨てましたか」


 雨の音が庭を埋めていた。


「……家族を」と、彼女は言った。「父と、母がおりました。顔は覚えておりません」

「それから休みを。それから好きなものを」


 彼女は、一つずつ、数えるように言った。

 自分の持ち物を、点検するみたいに。


「それから望みを」


「……望みを」


「はい。歌い手に望みは不要です。望みは、逸脱の元ですので」


 彼女は、言った。


「わたくしには望みがありません」


 私は、雨の中を、一歩、進んだ。


「イゾルデ様」


「……」


「あなたは何を歌いたかったのですか」


 彼女の目が、私を見た。


 それから。


 彼女の唇が、開いた。


 ――何も、出なかった。


 昨夜の書庫と、同じだった。

 けれど昨夜とは違った。


 昨夜は、刻印が、彼女の声を焼いた。

 今夜は、刻印は、灼けていない。


 誰も彼女を、止めていない。


 それでも、彼女の唇からは、何も出なかった。


 彼女は、探していた。四つの歳より前まで遡って、必死に、自分の中を探していた。


 ――そして、見つからなかった。


 やがて、彼女の唇から、音が漏れた。


 歌では、なかった。

 言葉でも、なかった。


 ただの、息だった。

 最初の一音になり損ねた息の形だけが、雨の中に、落ちた。


 私は動けなかった。


 この人の中には、答えがある。

 あるはずなのだ。四つの子供が、歌いたかった何かが。


 けれど、この人は、それを取り出す道具を、持っていない。

 道具ごと、抜かれてしまったから。


 私の後ろで、ハンナが、両手で口を覆っていた。


「……これは逸脱です」


 声が戻っていた。いつもの平坦な声だった。


「セレスティア様。あなたは当庁の歌い手に、逸脱を促しました。これは記録します」

「あなたは間違っております」


 彼女は私に背を向けた。


 私は、この人を、哀れんでいた。

 同時に、この人は、まだ、私の敵だった。


 その二つが少しも矛盾しないことを、私は、この夜、知った。


 裏門のところで、彼女は、足を止めた。


 振り返らずに、言った。


「……セレスティア様」


「はい」


「四つの歳にわたくしはすべてを捨てました」


 雨が、彼女の白い装束を、灰色に変えていた。


「名前だけは捨てさせてもらえませんでした」


 彼女は、そこで、少しだけ、間を置いた。


「……母がつけた名前でした」

お読みいただきありがとうございます。


第35話でハンナが伝えた、母エレオノーラの言葉。「あれは、歌ではありません。あれは——猿轡です」。あれは比喩ではありませんでした。刻印を入れられた歌い手は、許しなく歌えば、喉が灼ける。洗濯物を干しながら鼻歌を歌っただけの娘が、どうなったか。


母は、その刻印を拒みました。「私は、誰の許しも要らずに歌います」。母が宮廷を追われた本当の理由が、ようやく形になりました。ファルクは、手にすぎなかったのです。


イゾルデが四つの歳に捨てさせられたもの。姓。家族。休み。好きなもの。そして、望み。


「あなたは、何を歌いたかったのですか」——この夜、彼女の喉を灼く刻印は、光っていませんでした。誰も彼女を止めていなかった。それでも、何も出てこなかった。答えが無いのではありません。答えを取り出す道具を、道具ごと抜かれてしまったのです。


たったひとつだけ、捨てさせてもらえなかったもの。


……ですが、勘違いしないでいただきたいのです。この人は、まだ敵です。哀れむことと、許すことは、別のことですから。セレスもこの夜、それを知りました。


母の「私は、誰の許しも要らずに歌います」が刺さった方、【評価】で一押しを。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第48話「支度金を積めば、『本物の歌い手』になれる」でお会いしましょう。

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