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第46話: 「その歌を、教えてください」

 その夜、私は、地上の書庫に残った。


 地下二層のものは、王女殿下の名で封じられた。原本は、御前に出すまで、一枚も持ち出せない。

 できるのは、書き写すことだけだった。


 私は、羊皮紙に、三百年前の字を、一字ずつ写していた。


 指が、かじかんでいた。それでも、手を止めたくなかった。

 手を止めると、あの壁が、瞼の裏に浮かんだ。爪で刻まれた、五線が。


 背後で、床の埃が、鳴った。


 私は、振り返った。


 白い装束が、立っていた。


「――イゾルデ様」


 彼女は、扉のところにいた。

 いつから、そこに居たのか、分からなかった。


「セレスティア様」


 平坦な声だった。


「ここは、封鎖されております」


「あなたも、入っていらっしゃいますが」


 彼女は、答えなかった。


 燭台の光が、彼女の顔を照らす。

 いつもの、作り物のような美しさ。表情のない、灰色の瞳。


 けれど、白い装束の裾に、泥が跳ねていた。


 この人が汚れているのを、私は初めて見た。

 宿舎から北の丘まで、馬車も使わずに、歩いてきたのだ。夜道を、一人で。


「確認に、参りました」


「確認?」


「劇場の記録に、不備がございます」


 彼女は、書架の間を、ゆっくりと進んできた。


「聖務卿の記録には、こうございます。『二十名、規定どおり入眠。傷病者なし』」

「……傷病者、なし、と」


「あの日、目を覚まさなかった方は、七十一名でした」と、彼女は言った。「わたくしが、数えました」


「七十一――」


「七十一名です。記録には、ゼロと書かれております」


 彼女は、そこで、口を閉じた。


 言うべきことを言い終えた顔だった。

 なのに、帰らなかった。


 沈黙が、長かった。


 書庫の埃の匂いと、蝋の焦げる音だけが、あった。


「……ほかに、何か」


「いいえ」


「イゾルデ様」


「……」


「あなたは、なぜ、ここにいらっしゃったのですか」


 彼女の指が、動いた。

 いつも羽根ペンを持っている指だった。今夜は、何も持っていなかった。


 その指が、何も無い空を、二度、掻いた。


 そして。


「セレスティア様」


「はい」


「あの日、あなたが劇場で歌われた歌を」


 彼女は、言った。


「――その歌を、教えてください」


 私の手から、羽根ペンが落ちた。


 この人は、二千人の前で、言ったのだ。

 「その歌は、教わっておりません」と。

 「聖歌庁は、眠らせる歌しか、教えません」と。


 あの時、この人の手は、震えていた。

 そして今、この人は、泥だらけの裾で、夜道を歩いて、ここへ来ている。


「教えます」


 私は、即答した。


 考える必要が、なかった。

 そのために歌ってきたのだ。誰でも歌える歌だから、誰にでも教えられる。厨房の少年にも、老兵にも、この人にも。


「今からでも。ここは声が響きますから、小さな声で大丈夫です」

「難しくありません。四つの音しか使いませんから――」


「――結構です」


 私は、口を閉じた。


「イゾルデ様?」


「結構です」


「なぜですか」


「教わることは、許されておりません」


 私は、彼女を、見た。


「……許されて、いない」


「聖歌庁の歌い手は、聖歌庁が定めた歌のみを歌います」と、彼女は言った。「登録外の旋律を習得することは、逸脱です」


「では、なぜ、いらっしゃったのですか」


「……解析のためです」


「解析」


「登録外歌唱の効果を、当庁は測っておりません。測るには、旋律の構造を把握する必要がございます」


 彼女は、少しだけ、早口になった。


「……これは、業務です」


 ――ああ。


 私は、その時、この人の形が、はっきりと見えた気がした。


 この人は、望んで、ここへ来た。

 夜道を、一人で、歩いて。羽根ペンも持たずに。誰にも言わずに。


 そして、その望みを、口に出せない。


 「知りたい」と言えないから、「業務です」と言う。

 「教えてください」と言ってしまってから、慌てて「結構です」と取り消す。


 この人の中には、何かを欲しがるという形が、無いのだ。

 四つの歳に、抜かれてしまったから。


 望みを持ったことがないのではない。

 望みを、言葉にする道具を、持っていないのだ。


「イゾルデ様」


「……」


「業務ですから、私が勝手に歌います。あなたは、勝手に聞いてしまうだけです」


 彼女は、何も言わなかった。

 止めもしなかった。


 私は、息を吸って――ふと、ためらった。


 あの日、この蔵で、私は囁くほどの一節を歌った。それだけで、書記官が二人、その場で眠り倒れた。

 けれど、あの時。私の隣には、ジルヴェスター様が、いらした。


 器は、あの人の血の中にある。

 地の底が応えたのだと思っていたあの音は――足の下ではなく、隣に、いたのかもしれない。


 この書庫に、今、あの人はいない。

 ならば、私の子守唄は、ただの子守唄のはずだった。


 私は、もう一度、息を吸った。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」


 書庫に、私の声が落ちた。


 埃が、燭台の光の中で、ゆっくりと回った。


「今日の痛みは、夜が連れていく――」


 イゾルデ様の唇が、動いた。


 私は、見ていた。


 彼女の唇が、私の歌を、なぞっていた。

 「ねむれ」の形に、開いて。「かぜのこ」の形に、丸くなって。


 ――音は、出なかった。


 一つも、出なかった。


 書庫は、静かだった。

 この上なく、静かだった。


 私の歌が終わっても、彼女の唇は、まだ動いていた。


 自分が声を出していないことに、気づいていないのだ。


「イゾルデ」


 声が、した。


 書庫の入口に、燭台の列が並んでいた。

 聖歌庁の白い装束が、いくつも。


 その先頭に、ラインハルト卿が立っていた。


 彼は、微笑んでいた。いつもの、温度のない微笑みだった。


「誰の許しで、ここに」


 イゾルデ様の唇が、止まった。


 そして。


 彼女の喉の付け根が、赤く、灼けた。


 閉じた唇に、月。

 聖歌庁の徽章が――刻印が、燠火のように、赤く光っていた。


 彼女は、声を上げなかった。

 ただ、膝から、崩れた。


お読みいただきありがとうございます。


「その歌を、教えてください」——イゾルデが、生まれて初めて、自分から誰かに何かを求めた瞬間でした。宿舎から北の丘まで、馬車も使わず、夜道を一人で歩いて。羽根ペンも持たずに。


ですが、彼女はそれを口に出したあと、すぐ取り消してしまいます。「結構です」「これは業務です」。望みを持ったことがないのではありません。望みを言葉にする道具を、四つの歳に抜かれてしまったのです。


セレスは「勝手に歌う」という抜け道を作りました。歌えば、あの人は勝手に聞いてしまうだけ。そしてイゾルデの唇は、確かに歌をなぞりました。


——音は、一つも出ませんでした。


自分が声を出していないことに、彼女は気づいてすらいなかった。この場面が、私はこの物語で一番書くのがつらいところでした。


そして、赤く灼ける喉の刻印。閉じた唇に、月。あれが何なのか、次回、二十年前を知る人が教えてくれます。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第47話「四つの歳に、捨てさせられたもの」でお会いしましょう。


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