第45話: 彼女が歌をやめた理由
――では、器は、どこへやった。
癖のある、細い字だった。
三百年前の記録官は、断罪記録の最後に、答えではなく、問いを残していた。
誰に向けた問いだったのだろう。
その先は、白紙だった。
「……続きが、あるはずだ」
ジルヴェスター様の声は、掠れていた。
無理もない。この人は、たった今、三百年信じてきたものを失ったばかりだ。功により賜ったはずの東の最果ては、歌い手を庇った罰だった。武門の家は、流された家だった。
それでも、彼は書架へ手を伸ばした。
その指先が、震えていた。
地下二層の空気は、冷たく、乾いていた。
三百年、誰も息をしなかった場所の空気だった。
燭台を掲げるブリュンヒルデ様の後ろで、エルフリーデ様が、綴じの背を一つずつ確かめていく。革が硬化して、指が触れるたびに、粉のような音を立てた。
「――ありました」
殿下の声が、余韻もなく、床に落ちた。
抜き出されたのは、薄い綴じだった。
表紙に、事務的な四文字だけが押してある。
『納めの記』
エルフリーデ様は、それを机に置き、開いた。
そして、二行読んだところで、指が止まった。
「……セレスティア。これは、あなたが読むべきものではないかもしれない」
「読みます」
私は、燭台を引き寄せた。
最初の一行は、覚悟していたものだった。
『器、成る。これを歌い手ユーディトの喉に納むべし、と議したり』
喉。
やはり、そうなのだ。歌を封じるのだから、喉に納める。当たり前の話だった。
けれど、次の行で、私の指が止まった。
『されど、医師ら申すよう。器を喉に納むれば、歌い手、三日と保たず』
「……殺してしまう、ということですか」
「そうだ」と、ジルヴェスター様が言った。「だが、読め。まだ、続く」
『歌い手、死せば。血は絶えず、名のみ残る』
『民は、これを聖女と呼ばん』
息が、止まった。
殺せない。
殺せば、彼女は聖女になる。血筋は残り、名は語り継がれ、王家は歌い手を殺した家として、三百年、指を差される。
だから、彼らは、議を改めた。
『よって、議を改む』
『器は――これを庇いし者に、納むべし』
紙の上の文字が、滲んだ。
自分が泣いているのだと気づくのに、少し、かかった。
『器は、鎮魂の歌にのみ応ず』
『歌い手が歌えば、器は目を覚まし、納められし者の内を、蝕む』
『すなわち』
最後の一行を、エルフリーデ様が、声に出して読んだ。
読み上げなければ、誰も信じないと思ったのだろう。
『――歌い手の喉を塞ぐに、鉄も、縄も、要らず。歌い手自身に、塞がせればよい』
誰も、何も言わなかった。
燭台の芯が、一度、じ、と鳴った。
「……人質だ」と、ジルヴェスター様が言った。
私は、頷けなかった。
頷いてしまえば、それが本当になってしまう気がした。
ユーディト様が歌えば、初代様が苦しむ。
一節歌えば、一節ぶん。彼女を庇ったせいで罰を受けた男が、彼女の歌のせいで、削られていく。
猿轡は、彼女の口には、はめられなかった。
彼女の手に、握らされたのだ。
――あの人たちは、賢かった。
喉を潰せば、歌い手は殉教者になる。鎖で縛れば、いつか誰かが解く。
けれど、本人の意思で口を閉じさせれば。
誰も、彼女を黙らせていないことになる。
記録には、こう書ける。
「歌い手は、自ら歌わなくなった」と。
ジルヴェスター様が、綴じから、手を離した。
彼は、しばらく、自分の掌を見ていた。
「……初代は」
声が、平坦だった。
感情を殺しているのではない。感情の置き場が、見つからないのだ。
「初代は、知っていたのか」
「え?」
「己に器が納められていることを、あの男は、知っていたのか。……知っていて、彼女に、歌うなと言ったのか」
私は、答えられなかった。
どちらでも、同じことだった。
知っていたのなら、彼は、彼女に頼んだのだ。頼まれた彼女は、断れない。
知らなかったのなら、彼女は、誰にも相談できないまま、一人で決めたのだ。
どちらにしても、口を閉じたのは、彼女だった。
エルフリーデ様が、机に手をついた。
「……私は」
殿下の声が、震えていた。
「私は、王家の者として、あなたに詫びるべき古い罪がある、と書いた。この春だ」と、殿下は言った。「私は、その罪を、『歌い手を一人、断罪したこと』だと思っていた」
殿下は、顔を上げた。
その目が、赤かった。
「違った。私たちは、彼女に、自分で自分の口を塞がせた」
「そして、それを三百年、誉れの記録に書き換えて、しまい込んだのだ」
だから、器は使われなかった。
三百年前、当代の鎮魂の歌い手ユーディトは、誰にも縛られず、誰にも塞がれず――自分の意思で、口を閉じた。
そして、器は、一度も目を覚まさないまま、眠りについた。
初代ヴァルトハイム公の血の中で。嵐しか吹かない、東の最果てで。
私は、振り返った。
壁があった。
鎖の跡が、二つ。そして、その下に、爪で刻まれた五線。
私は、燭台を持って、その前に立った。
五線の上に、音符が並んでいる。石に、一つずつ。
どれほどの時間がかかったのだろう。どれほど、指が割れただろう。
彼女は、この歌を、歌わなかった。
歌えば、あの人が苦しむから。
だから、刻んだ。
声にできない歌を、石に。
いつか、誰かが、ここへ来るかもしれないから。
その誰かは、器に縛られていないかもしれないから。
――三百年、待っていたのだ。
私は、指を伸ばした。
石は、冷たかった。
その壁の下に、石になった薔薇があった。
この地下で見つけたものだ。花びらの一枚一枚まで、氷の薔薇のかたちを保ったまま、石に変わっていた。
歌い手が居た証。城の中庭に咲くものと、同じ花。
――この花は、彼女が歌うのをやめた日に、石になったのだろうか。
それとも、彼女が歌わなくなってからも、しばらくは、咲き続けていたのだろうか。
咲いていたのだとしたら。
誰も来ない地下で、たった一人、歌わない歌い手の前で、花だけが、彼女を歌い手だと言い張っていたことになる。
その時。
頭の上で、音がした。
地上から、竪坑を伝って、降りてきた音だった。
長い、長い声。
悲しい声。
「――親竜だ」と、ジルヴェスター様が言った。
あの夜、王都の空を横切って、北の丘の上で止まった竜。私たちを、ここへ導いた竜。
私の肩の上で、ルルが、小さく身を縮めた。
その声を聞きながら、私は、ようやく腑に落ちた。
あの竜は、神託を告げていたのではない。
器の在り処を、知っていたのでもない。
――ただ、覚えていたのだ。
三百年前、この丘の上で、あの竜は、歌を聞いた。
誰かが、歌っていた。竜が覚えてしまうくらい、何度も、何度も。
そして、ある日。
その歌が、途中で、止まった。
止まったまま、三百年。
竜は、長生きなだけの生き物だ。
長生きなだけの生き物が、三百年、同じ丘の上を旋回して、鳴き続けていた。
――続きを、待っていた。
喉から、声にならない音が漏れた。
私は、口を押さえた。押さえた手の隙間から、嗚咽がこぼれた。
三百年前、この地下で、一人の歌い手が口を閉じた。
誰が、困っただろう。
誰が、気づいただろう。
王は、気づかなかった。
記録官は、問いを一行、残しただけだった。
覚えていたのは、竜だけだった。
「セレスティア」
ジルヴェスター様が、私の背に、手を置いた。
その手は、氷のように冷たかった。
「私は、四年、眠れなかった」
「……はい」
「眠るたびに、悪夢を見た。白雪の戦を。ヴィルヘルムを。私が救えなかった者たちを」と、彼は言った。「私は、あれを、私の罪だと思っていた。私の頭の中から湧いてくるものだと、そう思って、四年、赦しを乞い続けた」
彼は、自分の胸に、手を当てた。
その下に、三百年、眠っているものがある。
「だが、あれは、私の中にいる」
「ジルヴェスター様」
「セレスティア」
彼は、暗い天井を見上げた。
その先の丘の上で、竜が、まだ鳴いていた。
「――では私が眠るたび、あれは三百年前の続きを見ているのか」
お読みいただきありがとうございます。第5章の芯となる回でした。
三百年前、王家は歌い手の喉に器を納めようとして、やめました。殺せば聖女になってしまうからです。そこで彼らが考えついたのが——庇った男に打ち込むこと。歌えば、あの人が苦しむ。ならば、彼女は自分で口を閉じるしかない。
猿轡は、彼女の口にはめられませんでした。彼女の手に、握らされたのです。
そして記録には、こう残せます。「歌い手は、自ら歌わなくなった」と。誰も彼女を黙らせていないことになる。三百年前の人間は、恐ろしく賢かったのだと思います。
壁の五線は、彼女が歌えなかった歌でした。歌えないから、爪で石に刻んだ。いつか、器に縛られていない誰かが、ここへ来るかもしれないから。
そして、竜です。あの竜は神託を告げていたのでも、器の在り処を知っていたのでもありませんでした。ただ、三百年前にその歌を聞いて、覚えてしまって——途中で止まったきりの続きを、ずっと待っていただけなのです。
歌い手が口を閉じて、困った人は、誰もいませんでした。気づいたのは、竜だけでした。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第46話「『その歌を、教えてください』」でお会いしましょう。




