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第44話: 「功により、東の最果てを賜る」

 殿下が、懐から手帳と鉛筆を出して、その五線を、写し取りはじめた。


 線を、一本。また一本。点を、一つずつ。


「セレスティア。読めますか」


 私は、壁の点を、目で追った。


 読める、と思った。

 母の楽譜とは、書き方が違う。ずっと古い。それなのに、読めてしまう。


 私は、息を吸って――


「よせ」


 ジルヴェスター様の手が、私の腕を掴んだ。


「ここで歌えば、何が起きるか、分からん」と、彼は言った。「……上で、一節でどうなったか、忘れたか」


 私は、頷いた。


 彼の手は、震えていた。

 私の腕を掴んでいるのではない。私に、掴まっていた。


 もう一つの扉は、鉄の輪の、向かい側にあった。


 低い、木の扉だった。錠は、無い。

 押すと、あっけなく、内側へ開いた。


 小さな部屋だった。


 机が一つ。椅子が三脚。棚が一つ。

 それだけの、事務の部屋だった。


 私は、その配置の意味が分かって、吐き気がした。


 ――ここで、裁いたのだ。


 鎖に繋がれた人を、隣の部屋に置いたまま。

 三人が、この机に着いて、書類を作った。


 裁く場所と、閉じ込める場所が、扉一枚で、隣り合っていた。


 棚には、綴じ帳が、七冊。


 ブリュンヒルデ様が、上から順に、抜いていった。

 四冊目で、彼女の手が、止まった。


「……閣下」


 彼女の声が、おかしかった。

 あの白雪の戦を語る時ですら乱れなかった声が、掠れていた。


「これを、ご覧になってはなりません」


「寄越せ」


「閣下」


「ブリュンヒルデ」と、ジルヴェスター様は言った。「私は、三百年、それを知らずに生きてきた家の、当主だ」


 彼女は、しばらく動かなかった。

 それから、両手で、その綴じ帳を、差し出した。


 彼が、机の上で、それを開いた。


 私は、隣から、覗き込んだ。


 けいの引かれた、几帳面な字だった。

 三百年前の、王国の書式。判決の記録。


 一行目に、こうあった。


「歌い手ユーディト。国家への奉仕を拒みし罪により、これを断罪す」


 私の、指先が、冷たくなった。


 ――拒絶による断罪。

 名簿の、黒い染みの下にあった、あの七文字。


 ここに、続きが、あった。


「一、当人の歌は、王国の秩序に資すること大なり。ゆえに国家これを求む」

「一、当人はこれを拒み、『歌は人を従わせるためのものにあらず』と申し立てたり」

「一、申し立ては不敬にして、王国の益を損なうものと認む」


 私は、その三行を、二度、読んだ。


 罪状は、それだけだった。


 人を殺していない。物を盗んでいない。国を売っていない。


 ――断ったのだ。


 ただ、断った。それだけで、この人は、隣の部屋の壁に、繋がれた。


 私は、次の行へ、目を落とした。


 そして、隣で、ジルヴェスター様の呼吸が、止まった。


「一、これを庇いしヴァルトハイム公、共に罰す」


 彼の指が、その行の上で、動かなくなった。


「一、公の武功にかんがみ、死は免ず」

「一、公および公の血族を、東の最果てへ移す。以後、王都への参内を禁ず」

「一、右の一件、『功により、東の最果てを賜る』と記すべし」


 ――『と記すべし』。


 私は、その五文字を、見つめた。


 書けと、書いてある。

 嘘を、こう書けと。三百年前の、判決文の、その中に。


 ジルヴェスター様は、動かなかった。


 長い、長い間、彼は、その一行を見ていた。


「……セレスティア」


「はい」


「私の家の広間には、初代の肖像がある」


「はい」


「幼い頃、父に、教えられた」と、彼は言った。「あの方は、王国の盾だ。北の嵐を一身に引き受け、王都を護る。それが、我が家の誉れだ。……お前も、いずれ、そうなる、と」


 彼の声は、平坦だった。

 感情が無いのではない。多すぎて、通り道を失っているのだと、分かった。


「私は、四つの歳から、それを信じていた。嵐の中で育った。窓が鳴る夜も、これは誉れだと思っていた。眠れぬ夜も、これは盾の役目なのだと」


 彼は、綴じ帳から、目を離さなかった。


「三百年だ」と、彼は言った。「私の父も。祖父も。その前も。……皆、そう信じて、あの嵐の中で、死んだ」


「ジルヴェスター様」


「――誰一人、褒美など、貰っていなかった」


 空気が、鳴った。


 机の上の綴じ帳の頁が、ひとりでに、めくれ上がった。

 彼の指先から、青白い光が、散った。松明の火が、いっせいに、横へ倒れた。


「閣下!」


 ブリュンヒルデ様が、剣の柄に手をかけ――そして、その手が、行き場を失った。


 斬るべき敵が、いなかった。

 敵は、三百年前に、死んでいた。


 私は、彼の前に回り込んだ。


 両手で、その顔を、挟んだ。


「ジルヴェスター様。私を、見てください」


 彼の瞳は、私を映していなかった。

 この人は今、三百年前の、東の最果てにいる。


 ――歌えば、あれが目を覚ます。

 ――歌わなければ、この人が、壊れる。


 私は、迷わなかった。


 息を吸って。

 唇を閉じたまま、旋律だけを、鳴らした。


 言葉は、心の中だけで。母が、私にそうしてくれたように。

 夜中に目を覚ました子を、それ以上、起こしてしまわぬように。


 音を吸う部屋が、私の歌を、飲み込んだ。


 余韻は、無い。反響も、無い。

 この歌は、彼の耳にしか、届かなかった。


 ――地の底も、応えなかった。


 三百年前、この部屋を作った者たちは、歌を外へ出さぬために、壁を塞ぎました。


 ――おかげさまで。


 あなた方の工夫は今、この人を、たった一人ぶんだけ、救っています。


 光が、消えていった。


 彼の肩から、力が抜けた。

 私の掌の下で、彼の顎が、わずかに緩んだ。


 彼は、眠らなかった。眠るわけには、いかなかった。

 ただ、息が、深くなった。


 私は、歌をやめた。


 部屋は、静かだった。

 この部屋は、三百年、ずっと、こうだった。


「……セレスティア」と、彼は言った。「すまん」


「謝らないでください」


「私は、家の誇りを失った。……それだけだ」


 彼は、机の上を見た。


「だが、あの方は、歌を失った。命も、失いかけた。比べるのも、おこがましい」


 彼は、綴じ帳に、手を伸ばした。

 最後まで読む、という手つきだった。


 私は、止めなかった。

 この人は、そういう人だ。


 頁は、あと一枚だった。


 判決の文言は、もう終わっていた。

 その下に、余白があった。


 余白に、一行だけ、書き足されていた。


 同じ書式。同じ、几帳面な字。

 事務の記録の、最後の一行として。


 片付け忘れた備品のことでも訊ねるような、ごく事務的な、問いだった。


「――では、器は、どこへやった」


お読みいただきありがとうございます。


第38話で、ジルヴェスター様はこう言いました。「功を立てた者に、王が与えるのは、王都に近い豊かな土地だ。嵐しか吹かぬ最果てを『賜る』のは、褒美か?」


答えが、出てしまいました。


「一、右の一件、『功により、東の最果てを賜る』と記すべし」——嘘の書き方まで、判決文の中に、指定されていたのです。三百年、ヴァルトハイム家が誇りとしてきた「武門の誉れ」「王国の盾」は、その一行から始まっていました。


そしてユーディトの罪状は、たった三行。人を殺してもいない、物を盗んでもいない、国を売ってもいない。「歌は人を従わせるためのものにあらず」と申し立てた。断った。それだけです。それだけで、隣の部屋の壁に繋がれました。


ブリュンヒルデが「ご覧になってはなりません」と止めたこと。剣の柄に手をかけて、その手が行き場を失ったこと。斬るべき敵が、三百年前に死んでいたこと。この場面を、どうか読んでいただきたいのです。


セレスが唇を閉じたまま歌ったのは、地の底に届かせないためでした。音を吸う部屋——歌い手を黙らせるために三百年前の誰かが作った仕掛けが、いま彼女の歌を、彼一人だけのものにしてくれました。静かなお返しです。


そして、記録の最後の一行。三百年前、この机で、誰かが誰かに訊ねています。片付け忘れた備品のことでも訊くように。


——では、器は、どこへやった。


次回、第5章の芯です。ユーディトが、なぜ歌うのをやめたのか。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第45話「彼女が歌をやめた理由」でお会いしましょう。


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