第43話: 石になった、氷の薔薇
墨の下に、字が、透けていた。
私は、名簿を、そっと火に近づけた。近づけすぎれば、燃える。
手が、震えた。
――拒絶。
最初の二文字が、読めた。
「もう少し、傾けて」と、殿下が、私の肩越しに言った。
私は、名簿を傾けた。
黒い墨の下で、三百年前の誰かが書いた字が、ゆっくりと、形になった。
私は、それを、声に出して読んだ。
「拒絶による、断罪」
「拒絶」と、ジルヴェスター様が繰り返した。「何を、拒んだ」
「書いてありません」と、殿下が言った。「……いえ。書いてあったものを、消したのです」
殿下の声が、硬かった。
「セレスティア。これが、王家のやり方です」と、殿下は言った。「殺すのではない。名簿から、理由を消す。理由が無ければ、後の世の誰も、その人が何をしたのか、問えなくなる」
「三百年経てば、ユーディトという名は、ただの黒い染みになります」
名簿には、それ以上、何も無かった。
断罪の記録そのものは、ここには無い。
「まだ、下がある」と、ジルヴェスター様が言った。
彼は、蔵の奥の壁を、松明で照らしていた。
書架の列が終わる、その先。
石の床に、四角い口が開いていた。
階段だった。
螺旋ではなく、まっすぐな、急な階段だった。
手すりは無い。石段は、真ん中が窪むほど、擦り減っていた。
――擦り減っている。
私は、それに気づいて、足が止まった。
誰かが、何度も、ここを上り下りしたのだ。
書物を運ぶために? ……それとも。
降りきったところで、私は、おかしなことに気づいた。
音が、無い。
いえ――音が、続かないのだ。
ブリュンヒルデ様の鎧が鳴る。その音が、鳴った瞬間に、消える。
石の部屋なら、響くはずだった。反響が、あるはずだった。
何も、無かった。
私は、試しに、手を打った。
ぱん。
その音は、生まれたそばから、壁に吸い込まれた。
余韻が、一切、無かった。
「……なんです、ここは」と、ブリュンヒルデ様が呟いた。
私は、壁に手を当てた。
石ではなかった。石の上に、灰色の、繊維の詰まったものが、分厚く貼り付けてある。三百年経って、ぼろぼろと崩れかけていた。
私は、それが何なのか、分かってしまった。
「――これは、音を、吸う部屋です」
私の声さえ、この部屋では、遠く聞こえた。
「歌劇場の壁には、逆のものを使います。声を、よく響かせるために」と、私は言った。「これは、その反対です。中で、どれだけ声を出しても」
私は、そこで、言葉を切った。
「外へは、一音も、出ません」
誰も、何も言わなかった。
この部屋では、沈黙すら、重さを持たなかった。
松明が、壁を舐めた。
鉄の輪が、二つ。腰の高さに、埋め込まれていた。
その周りの石が、擦れて、白く光っていた。
鎖の跡だった。
繋がれた誰かが、動くたび、鎖が石を削った。
何年も、何年も、かけて。
ジルヴェスター様が、その輪に、手を触れた。
「……牢ではない」と、彼は言った。
「牢では、ないのですか」
「牢なら、音を吸う必要が無い」
彼の声は、氷のようだった。
「ここは、歌わせないための部屋だ」
部屋の、隅だった。
最初、私は、それを石の突起だと思った。
膝をついて、松明を近づけて――息が、止まった。
薔薇だった。
石の床から、一輪、生えていた。
花弁は、六枚。開きかけの形のまま。茎には、小さな棘まで、ある。
灰色の、石だった。
指で弾くと、こつ、と硬い音がした。
けれど、私は、その形を、知っていた。
城の中庭で。あの夜。
ジルヴェスター様が「離さない」と言って泣いた、あの夜に。
――氷の薔薇だ。
「歌い手が城を訪れた証に咲く」と、ハンナは言った。古い言い伝えだと、笑って。
私が歌った夜、それは、本当に咲いた。
三百年前の、この部屋にも。
咲いたのだ。
そして、誰にも溶かされないまま、石に、なった。
私は、その石の薔薇に、そっと触れた。
冷たくは、なかった。ただの、乾いた石だった。
――ここに、居たのですね。
名簿の、黒い染み。除籍。拒絶による断罪。
それが、急に、人になった。
この部屋で、鎖に繋がれて、それでも、この人は歌ったのだ。
誰にも聞こえない部屋で。一音も外へ出ない部屋で。
歌って、歌って、薔薇を咲かせた。
……誰に、聞かせるつもりだったのだろう。
私の目から、涙が落ちた。石の花弁に当たって、小さな音を立てた。
その音さえ、この部屋は、吸ってしまった。
私の後ろで、衣擦れの音がした。
殿下が、膝をついていた。
王女が、埃だらけの床に、両膝を、ついていた。
「殿下!」
「セレスティア」と、殿下は言った。「私は、この部屋を作らせた者の、子孫です」
「殿下、それは、三百年前の――」
「三百年前です、と言えば、済みますか」
殿下は、顔を上げなかった。
「済まないのです。……この部屋は、まだ、あるのですから」
私は、何も言えなかった。
壊されてもいない。埋められてもいない。
この部屋は、三百年、ここで、次の誰かを待っている。
登録。三条件。歌う相手は当庁が定める。当庁の許可なく歌わぬこと。
――イゾルデ様の喉の、あの刻印。
やり方が、変わっただけだった。
立ち上がろうとして、私は、壁に手をついた。
鉄の輪の、すぐ下だった。
指先に、引っかかりがあった。
私は、松明を、近づけた。
線が、あった。
石の壁に、細い線が、五本。
等間隔で、真っ直ぐに、横へ。
その上に、点が、いくつも。丸い頭と、短い尾を持つ、小さな点が。
線は、深くない。刃物の跡ではなかった。
同じところを、何度も、何度も、削り続けた跡だった。
――爪だ。
鎖に繋がれた人が、手の届く範囲の壁に、爪で、それを刻んでいた。
五線だった。
誰にも聞こえない部屋で、この人は、歌を、壁に書いていた。
お読みいただきありがとうございます。
三百年前の断罪の輪郭が、少しずつ見えてきました。「拒絶による断罪」——彼女は、何かを断った。ただそれだけで、名簿から名前を消されました。殿下の言うとおりです。殺すより、理由を消すほうが、ずっと確実に人を消せるのです。
そして、地下二層。音を吸う部屋。
牢なら、音を吸う必要はありません。あれは、歌わせないための部屋でした。歌い手の喉を潰す代わりに、部屋のほうを塞ぐ。ずいぶん丁寧な仕事です。三百年前の人々は、彼女の歌が本当に人を動かすと、知っていたのでしょう。
その部屋の隅に、石になった氷の薔薇が咲いていました。第15話で、城の中庭に咲いたあの花と、同じ形です。誰にも溶かされないまま、三百年、石になって残っていました。
鎖に繋がれて、一音も外へ出ない部屋で、それでも彼女は歌い続けたのです。誰に聞かせるつもりだったのか——それは、たぶん、誰にでもなかったのだと思います。
エルフリーデ王女が膝をついた理由も、どうか読んでいただきたいのです。「三百年前です、と言えば、済みますか」「この部屋は、まだ、あるのですから」。壊されず、埋められず、この部屋は、次の誰かを待っています。イゾルデの喉の刻印は、その、新しい形なのでしょう。
そして壁には、爪で刻まれた五線がありました。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第44話「『功により、東の最果てを賜る』」でお会いしましょう。




