表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/47

第43話: 石になった、氷の薔薇

 墨の下に、字が、透けていた。


 私は、名簿を、そっと火に近づけた。近づけすぎれば、燃える。

 手が、震えた。


 ――拒絶。


 最初の二文字が、読めた。


「もう少し、傾けて」と、殿下が、私の肩越しに言った。


 私は、名簿を傾けた。

 黒い墨の下で、三百年前の誰かが書いた字が、ゆっくりと、形になった。


 私は、それを、声に出して読んだ。


「拒絶による、断罪」


「拒絶」と、ジルヴェスター様が繰り返した。「何を、拒んだ」


「書いてありません」と、殿下が言った。「……いえ。書いてあったものを、消したのです」


 殿下の声が、硬かった。


「セレスティア。これが、王家のやり方です」と、殿下は言った。「殺すのではない。名簿から、理由を消す。理由が無ければ、後の世の誰も、その人が何をしたのか、問えなくなる」

「三百年経てば、ユーディトという名は、ただの黒い染みになります」


 名簿には、それ以上、何も無かった。

 断罪の記録そのものは、ここには無い。


「まだ、下がある」と、ジルヴェスター様が言った。


 彼は、蔵の奥の壁を、松明で照らしていた。


 書架の列が終わる、その先。

 石の床に、四角い口が開いていた。


 階段だった。


 螺旋らせんではなく、まっすぐな、急な階段だった。

 手すりは無い。石段は、真ん中が窪むほど、擦り減っていた。


 ――擦り減っている。


 私は、それに気づいて、足が止まった。


 誰かが、何度も、ここを上り下りしたのだ。

 書物を運ぶために? ……それとも。


 降りきったところで、私は、おかしなことに気づいた。


 音が、無い。


 いえ――音が、続かないのだ。


 ブリュンヒルデ様の鎧が鳴る。その音が、鳴った瞬間に、消える。

 石の部屋なら、響くはずだった。反響が、あるはずだった。


 何も、無かった。


 私は、試しに、手を打った。


 ぱん。


 その音は、生まれたそばから、壁に吸い込まれた。

 余韻が、一切、無かった。


「……なんです、ここは」と、ブリュンヒルデ様が呟いた。


 私は、壁に手を当てた。


 石ではなかった。石の上に、灰色の、繊維せんいの詰まったものが、分厚く貼り付けてある。三百年経って、ぼろぼろと崩れかけていた。


 私は、それが何なのか、分かってしまった。


「――これは、音を、吸う部屋です」


 私の声さえ、この部屋では、遠く聞こえた。


「歌劇場の壁には、逆のものを使います。声を、よく響かせるために」と、私は言った。「これは、その反対です。中で、どれだけ声を出しても」


 私は、そこで、言葉を切った。


「外へは、一音も、出ません」


 誰も、何も言わなかった。

 この部屋では、沈黙すら、重さを持たなかった。


 松明が、壁を舐めた。


 鉄の輪が、二つ。腰の高さに、埋め込まれていた。

 その周りの石が、擦れて、白く光っていた。


 鎖の跡だった。


 繋がれた誰かが、動くたび、鎖が石を削った。

 何年も、何年も、かけて。


 ジルヴェスター様が、その輪に、手を触れた。


「……牢ではない」と、彼は言った。


「牢では、ないのですか」


「牢なら、音を吸う必要が無い」


 彼の声は、氷のようだった。


「ここは、歌わせないための部屋だ」


 部屋の、隅だった。


 最初、私は、それを石の突起だと思った。


 膝をついて、松明を近づけて――息が、止まった。


 薔薇だった。


 石の床から、一輪、生えていた。

 花弁は、六枚。開きかけの形のまま。茎には、小さなとげまで、ある。


 灰色の、石だった。

 指ではじくと、こつ、と硬い音がした。


 けれど、私は、その形を、知っていた。


 城の中庭で。あの夜。

 ジルヴェスター様が「離さない」と言って泣いた、あの夜に。


 ――氷の薔薇だ。


「歌い手が城を訪れた証に咲く」と、ハンナは言った。古い言い伝えだと、笑って。

 私が歌った夜、それは、本当に咲いた。


 三百年前の、この部屋にも。


 咲いたのだ。


 そして、誰にも溶かされないまま、石に、なった。


 私は、その石の薔薇に、そっと触れた。


 冷たくは、なかった。ただの、乾いた石だった。


 ――ここに、居たのですね。


 名簿の、黒い染み。除籍。拒絶による断罪。

 それが、急に、人になった。


 この部屋で、鎖に繋がれて、それでも、この人は歌ったのだ。

 誰にも聞こえない部屋で。一音も外へ出ない部屋で。


 歌って、歌って、薔薇を咲かせた。


 ……誰に、聞かせるつもりだったのだろう。


 私の目から、涙が落ちた。石の花弁に当たって、小さな音を立てた。


 その音さえ、この部屋は、吸ってしまった。


 私の後ろで、衣擦きぬずれの音がした。


 殿下が、膝をついていた。


 王女が、埃だらけの床に、両膝を、ついていた。


「殿下!」


「セレスティア」と、殿下は言った。「私は、この部屋を作らせた者の、子孫です」


「殿下、それは、三百年前の――」


「三百年前です、と言えば、済みますか」


 殿下は、顔を上げなかった。


「済まないのです。……この部屋は、まだ、あるのですから」


 私は、何も言えなかった。


 壊されてもいない。埋められてもいない。

 この部屋は、三百年、ここで、次の誰かを待っている。


 登録。三条件。歌う相手は当庁が定める。当庁の許可なく歌わぬこと。

 ――イゾルデ様の喉の、あの刻印。


 やり方が、変わっただけだった。


 立ち上がろうとして、私は、壁に手をついた。


 鉄の輪の、すぐ下だった。


 指先に、引っかかりがあった。


 私は、松明を、近づけた。


 線が、あった。


 石の壁に、細い線が、五本。

 等間隔で、真っ直ぐに、横へ。


 その上に、点が、いくつも。丸い頭と、短い尾を持つ、小さな点が。


 線は、深くない。刃物の跡ではなかった。

 同じところを、何度も、何度も、削り続けた跡だった。


 ――爪だ。


 鎖に繋がれた人が、手の届く範囲の壁に、爪で、それを刻んでいた。


 五線だった。


 誰にも聞こえない部屋で、この人は、歌を、壁に書いていた。


お読みいただきありがとうございます。


三百年前の断罪の輪郭が、少しずつ見えてきました。「拒絶による断罪」——彼女は、何かを断った。ただそれだけで、名簿から名前を消されました。殿下の言うとおりです。殺すより、理由を消すほうが、ずっと確実に人を消せるのです。


そして、地下二層。音を吸う部屋。


牢なら、音を吸う必要はありません。あれは、歌わせないための部屋でした。歌い手の喉を潰す代わりに、部屋のほうを塞ぐ。ずいぶん丁寧な仕事です。三百年前の人々は、彼女の歌が本当に人を動かすと、知っていたのでしょう。


その部屋の隅に、石になった氷の薔薇が咲いていました。第15話で、城の中庭に咲いたあの花と、同じ形です。誰にも溶かされないまま、三百年、石になって残っていました。


鎖に繋がれて、一音も外へ出ない部屋で、それでも彼女は歌い続けたのです。誰に聞かせるつもりだったのか——それは、たぶん、誰にでもなかったのだと思います。


エルフリーデ王女が膝をついた理由も、どうか読んでいただきたいのです。「三百年前です、と言えば、済みますか」「この部屋は、まだ、あるのですから」。壊されず、埋められず、この部屋は、次の誰かを待っています。イゾルデの喉の刻印は、その、新しい形なのでしょう。


そして壁には、爪で刻まれた五線がありました。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第44話「『功により、東の最果てを賜る』」でお会いしましょう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ