第42話: 地の底が、私の歌に応えた
埃の匂いがした。
黴でも、煤でもない。乾いた羊皮紙と、石と、時間の匂い。
三百年、誰も呼吸しなかった場所の匂いだった。
松明の火が、書架の列を照らし出す。
高さは、私の背丈の三倍ほど。それが、奥へ十列。二十列。
どこまで続いているのか、光では届かなかった。
「……なんという」と、ブリュンヒルデ様が呟いた。
彼女は、手前の棚に手を伸ばし、指で撫でた。
白い指の跡が、埃の中に残った。
「焦げておりません」と、彼女は言った。「梁も、床も。……この蔵は、火など、見たことがございません」
証拠は、半刻もしないうちに出た。
殿下が、入口近くの棚から、一冊の綴じ帳を抜き出したのだ。
表紙に、丁寧な字で、こうあった。
「北丘記録庫焼失につき、報告」
殿下は、それを、しばらく見つめていた。
それから、乾いた声で笑った。
「……焼けた蔵の、焼けた報告書が」
「焼けた蔵の中に、綺麗に、仕舞ってあります」
私は、言葉が出なかった。
誰かが、三百年前、この報告書を書いた。
そして、燃えたことになっている蔵へそれを運び込み、棚に置いて、扉を閉じた。
――嘘の証拠を、嘘の場所に。
それは、隠蔽の物証そのものだった。
入口では、白い装束の書記官たちが、律儀に立っていた。
「当庁は、目録作成に協力いたします」と、ラインハルト卿は言った。「三百年ぶんです。殿下だけでは、手が足りますまい」
協力ではない。見張りだ。
私たちが何を見つけたか、この人は、全部、知ることになる。
それでも、殿下は断らなかった。断れば、また手続きが増える。
奥へ進むほど、それは、はっきりしてきた。
足の裏だった。
石の床から、震えが来る。耳では、聞こえない。
けれど、私の喉の奥が、それに合わせて、勝手に鳴りたがった。
拍を、覚えていた。
私の子守唄と、同じ拍だった。
「ジルヴェスター様」
「ああ」と、彼は言った。額に、汗が滲んでいた。「……近い」
彼の指先で、青白い光が、ちらついていた。
まだ昼だ。呪いが出る時刻ではない。それなのに。
「歌います」
「よせ」
「ほんの、一節だけです」と、私は言った。「囁くほどの声で。……確かめておきたいのです。私の歌が、何をしているのか」
彼は、しばらく私を見て、それから、頷いた。
私は、息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
声は、囁きほどだった。
城で、彼の枕元で歌う時よりも、ずっと、ずっと小さく。
「今日の痛みは、夜が連れていく――」
――地の底が、応えた。
書架が、鳴った。
埃が、棚から、いっせいに落ちた。細かい雪のように、松明の火の中を舞った。
私の声が、私の声ではない大きさになって、蔵じゅうに満ちた。
鐘の内側だった。
私が息を継ぐと、地の底も息を継いだ。私が音を下げると、地の底も下がった。
三百年、口を塞がれた誰かが、私の口を借りて、歌っていた。
「――奥方様!」
ブリュンヒルデ様の声で、我に返った。
書記官が、二人、床に倒れていた。
白い装束のまま、穏やかな顔で、眠っていた。
騎士の一人が、壁に手をついて、膝を折りかけていた。
ブリュンヒルデ様自身、目を見開いて、自分の頬を叩いていた。
一節だ。
私は、囁きほどの声で、一節、歌っただけだった。
私は、自分の喉を押さえた。
冷たいものが、背中を這い上がってきた。
城で、ハンナが眠った夜。厨房の少年が、まる一日、目を覚まさなかった夜。
私は、あの時、自分を疑った。
――私の力が、強くなりすぎたのだ、と。
――制御できぬ歌は害だと、あの人に言われたとおりなのだ、と。
違った。
「ジルヴェスター様」
声が、震えた。
「私の歌は、強くなっていません」
「……何?」
「城で歌った時も、今日と、同じ大きさで歌いました。息の使い方も、拍も、何ひとつ、変えていません」
私は、足元の石を見た。
「大きくしているのは、私では、ありません」
彼が、息を呑む音がした。
「――あれが、目を覚ましかけているのです」
私の歌に、合わせて。私の拍で、私の息継ぎで。
三百年眠っていた何かが、寝返りを打つように、少しずつ。
「私が歌うたび」と、私は言った。「あれは、少しずつ、起きています」
誰も、何も言わなかった。
私は、あの日、確かに七人を眠らせた。
けれど、それは、私が強くなったからではなかった。
――地の底の何かが、私の子守唄を、聞いていたからだった。
それからの数刻が、私たちの時間だった。
書記官の二人は、穏やかに眠り続けていた。
見張りが眠っている間だけ、私たちは、自由だった。
殿下は、王家の記録の並びを知っていた。ブリュンヒルデ様は、軍の書式に明るかった。
ジルヴェスター様は、蒼白な顔で、それでも棚の一つ一つを検めていった。
そして、私が、それを見つけた。
奥から三列目。低い棚の、一番下。
背表紙の無い、薄い帳面だった。
「王立聖歌隊 名簿」
私は、震える指で、開いた。
名前が、並んでいた。
三百年前に、王都で歌っていた人たちの名前が。
入隊した年。役目。退いた年。
どれも、事務的で、味気ない記録だった。
最後から、二枚目。
私の指が、止まった。
――ユーディト。
その名の横には、こうあった。
「除籍」
除籍。
死去でも、引退でもなく。
名簿の様式には、除籍の理由を書く欄がある。他の者は、皆、埋まっていた。「病死」「婚姻により退隊」「不敬により」。
ユーディトの欄は。
黒く、塗り潰されていた。
墨が、分厚く盛られていた。羊皮紙が波打つほど、何度も、何度も、塗り重ねられていた。
――消したかったのだ。
誰かが、三百年前、この一行を、必死に消したかった。
「灯りを」と、ジルヴェスター様が言った。
私は、名簿を、松明の火にかざした。
薄い羊皮紙が、光を透かした。
――そして。
黒い墨の、下から。
別の筆跡が、透けて、浮かび上がった。
お読みいただきありがとうございます。
「大火で焼けた」は、嘘でした。そして、その嘘を証明したのは、焼けた蔵の中に綺麗に仕舞われていた、焼失報告書そのものです。嘘の証拠を、嘘の場所に。三百年前の誰かの、几帳面な仕事ぶりが、三百年後に、彼ら自身を刺しました。
そして今回、ずっと引きずってきた違和感に、答えが出ました。
第36話、セレスの歌で城の七人が丸一日目を覚まさなかったあの事故。イゾルデは「制御できぬ歌は害です」と言い、ラインハルト卿は「あなたが劇場を眠らせかけた」と言いました。セレス自身、自分の力が強くなりすぎたのだと怯えていました。
違いました。セレスの歌は、何ひとつ変わっていません。強くなってなど、いなかった。
——地の底の何かが、彼女の子守唄を聞いて、目を覚ましかけているのです。同じ拍で。同じ息継ぎで。彼女が歌うたび、少しずつ。
囁きほどの一節で、大人が二人、その場で眠り倒れました。これが、いま彼女の歌に起きていることの、正体です。
そして名簿の、黒い染み。「ユーディト、除籍」。理由の欄だけが、羊皮紙が波打つほど塗り潰されていました。誰かが、必死に消したかった一行が、そこにあります。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第43話「石になった、氷の薔薇」でお会いしましょう。




