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第41話: 三百年、閉じられた扉

 黒い鍵は、思っていたより、ずっと小さかった。


 二千人の劇場を静まらせた鍵が、エルフリーデ殿下の白い指の中では、ただの古びた鉄にしか見えない。


 ――これが、三百年を開ける。


 北の丘に着いたのは、それから三日後の、昼過ぎだった。


 丘といっても、王都の外れの、草の生えた土の盛り上がりに過ぎない。羊が数頭、のんびりと草を食んでいた。

 その斜面に、扉があった。


 石の枠に、鉄の扉。つたが這い、蝶番ちょうつがいは錆で膨らんでいる。

 これが、旧記録庫。三百年前の大火で焼け落ちた、と伝えられる場所の、入口だった。


 私は、息を詰めた。


 地の底の、あの共鳴。私の子守唄と同じ拍で震えていた、あれ。

 ――この、すぐ下だ。


「奥方様」と、ブリュンヒルデ様が低く言った。「先客がおります」


 扉の前に、白い装束の列があった。


 聖歌庁の書記官が、六人。

 その先頭に、ラインハルト卿が立っていた。


「ようこそ、殿下」


 卿は、恭しく頭を下げた。相変わらず、熱の無い声だった。


「当庁は、殿下の御意向に、全面的に協力いたします」


「では、退いてください」


「もちろんです。――手続きが整い次第」


 殿下の足が、止まった。


「この扉は、三百年前の勅令により封じられました」と、卿は言った。「勅令には、こうございます。『この扉は、二つの鍵をもってのみ開く。王家の鍵と、聖歌庁の鍵。両者揃わざる時は、開くべからず』」


「私の鍵は、ここにあります」


「結構でございます。……ですが、当庁の鍵は、ございません」


 殿下の眉が、わずかに動いた。


「無い?」


「紛失いたしました」と、卿は言った。「百五十年ほど前の目録に、最後の記載がございます。以後、行方が分かりません。当庁の不手際です。深く、お詫び申し上げます」


 彼は、もう一度、丁寧に頭を下げた。


 ――私は、めまいがした。


 お詫びで扉が開かないのなら。

 この人は、頭を何度下げたって、構わないのだ。


「捜索は、いたします」と、卿は続けた。「王国じゅうの当庁の書庫を、順に。……三年か、五年か。あるいは、見つからぬかもしれません」

「それまで、この扉は、開きません。勅令ですので」


「破れば済む」と、ジルヴェスター様が言った。


「閣下」と、卿は微笑んだ。「勅令の封を破ることは、王法違反でございます。辺境公が王法を破った、と記録に残ります。……それは、閣下の家にとって、二度目の汚点となりましょう」


 ――二度目。


 ジルヴェスター様の肩が、動いた。


「一度目とは、何だ」


「さて。ただの、言葉の綾でございます」


 卿は、目を伏せた。


「聖務卿」


 殿下が、一歩、前に出た。


「あなたは今、勅令を引きました。……ずいぶん、よく覚えておいでですね。三百年前の文言を、一字も違えずに」


「記録官の家系ですので」


「ええ。ケルバー家は、代々、王家の記録を預かってきた」と、殿下は言った。「では、あなたは当然、その勅令の続きも、覚えておいでのはずです」


 卿の睫毛が、動かなくなった。


 殿下は、懐から、羊皮紙の巻物を取り出した。

 封蝋ふうろうは割られ、紙は飴色に焼けている。


「王家の書庫から、原本を持ってまいりました」と、殿下は言った。「あなた方が持っているのは、副本でしょう。……副本には、無い一行があります」


 殿下は、巻物を広げ、読んだ。


「――『鍵の一方を失いし時は、扉を破却して改めよ。記録は、失われてはならぬがゆえに』」


 風が、丘を渡った。

 羊が、間の抜けた声で鳴いた。


「聖務卿。あなたの鍵は、紛失した」と、殿下は言った。「ならば、この扉は、破ってよいのです。三百年前の王が、そう定めています」


「……原本の真贋しんがんは、当庁があらため」


「王家の勅令の真贋を、聖歌庁が裁くのですか」


 殿下の声は、静かだった。


「それは、王家より上に立つ、という意味になりますが。……ここで、そう仰いますか」


 初めて、私は見た。


 ラインハルト卿が、黙った。

 一呼吸。二呼吸。


 それだけだった。それだけで、彼は、また微笑んだ。


「――失言でした。どうぞ、お進みください」


 彼は、静かに、道を空けた。


 あまりに、あっさりと。


 私の胸に、ひやりとしたものが落ちた。

 この人は、負けたのではない。……ここは譲る場所だと、決めただけだ。


 殿下が、私の隣に来た。


 その横顔は、劇場で見た凛としたものとは、少し違った。


「セレスティア。私は、あなたに、詫びなければなりません」


「殿下、そのようなこと――」


「まだ、何も見ていないのに?」


 殿下は、扉を見つめたまま、言った。


「私は幼い頃、この丘で遊びました。乳母うばが言いました。『あそこは焼けた蔵だから、近寄ってはいけません』と。……私は、二十年、それを信じていました」

「けれど、王女になって、書庫の奥を自分で漁るようになって、気づいたのです」


「何に、でしょうか」


「焼けた蔵の目録が、残っている」


 殿下は、そう言った。


「焼けたのなら、中身の目録など、要らないでしょう。……誰かが、燃えなかったものを、数え続けているのです。三百年、ずっと」


 鉄槌が、振り下ろされた。


 三度。四度。

 錆びた蝶番が、悲鳴のような音を立てて、ねじ切れた。


 そして、扉が、内側へ倒れた。


 最初に出てきたのは、音だった。


 風ではない。押し込められていた空気が、三百年ぶりに外へ出てくる音。

 長い、長い、息を吐くような音だった。


 ――ため息だ、と私は思った。


 それから、私の喉の奥が、勝手に震えた。

 歌ってなど、いないのに。


 あの共鳴が、そこにいた。

 扉の向こうで、私を、待っていた。


 誰も、動けなかった。


 松明たいまつが、差し入れられた。

 闇が、後ろへ下がった。


 ――そして、私たちは、それを見た。


 焦げたはりも、崩れた石も、灰も、無かった。


 書架だった。


 石造りの書架が、奥へ、奥へと、整然と並んでいた。

 棚には、羊皮紙の束が、木箱が、綴じられた帳面が、隙間なく詰まっていた。


 埃を、たっぷりと被って。

 ――無傷で。


 三百年前の大火で焼け落ちたはずの記録庫は、ただの一冊も、焼けていなかった。


 背後で、ラインハルト卿が、何も言わないのが、分かった。


お読みいただきありがとうございます。


第5章「三百年前の断罪」、開幕です。エルフリーデ王女が劇場で掲げたあの黒い鍵が、ようやく、三百年ぶりに扉へ差し込まれました。


けれど権威というものは、正面から殴り返してはきません。ラインハルト卿がやったのは、ただ「鍵を失くしました。お詫びします」と頭を下げることだけでした。お詫びで扉が開かないのなら、この人は何度でも頭を下げられるのです。手続きは、剣より強い——それを一番よく知っているのが、記録官の家系である彼でした。


だからこそ、それを破ったのも手続きでした。副本には無い一行。「記録は、失われてはならぬがゆえに」。三百年前の王が残したその一行が、三百年後の隠蔽を切り裂きます。


そして、殿下の詫び。焼けた蔵の目録が残っている——誰かが、燃えなかったものを三百年数え続けている。彼女は二十年、その嘘の中で育ってきました。


扉の向こうは、焼け跡ではありませんでした。書架が、無傷で並んでいました。

つまり、三百年前の「大火」は、最初から、無かったのです。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第42話「地の底が、私の歌に応えた」でお会いしましょう。


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