第40話: 目覚めない客席と、たった一つの子守唄
最初は、誰も、事態を飲み込めなかった。
二十脚の椅子。二十人の眠り。
係の者たちが、一人ずつ、揺すって回る。名を呼ぶ。頬を叩く。水をかける。
誰も、起きなかった。
「静粛に」と、ラインハルト卿が言った。「深く眠っておられるだけです。三年ぶりの眠りですぞ。しばらく、そっとしておきなさい」
劇場に、笑いが起きかけた。
――そうだ、そうに違いない。よく眠っているだけだ。
その笑いを、悲鳴が断ち切った。
「奥様! 奥様、どうなさいました!」
傍聴席だった。
二階の桟敷で、婦人が一人、席から滑り落ちていた。
「――こちらもです!」
「この方も、目を開けません!」
声は、次々と上がった。
一階の隅。三階の立ち見。舞台のすぐ下。
さっき、イゾルデ様の歌を聞いていた人々が、笑ったままの顔で、崩れていく。
十人。二十人。
私が数えるのをやめた頃には、劇場のあちこちで、人が眠り倒れていた。
「イゾルデ様!」
私は、白い装束に駆け寄った。
「これは、あなたの歌の――」
「あり得ません」
彼女は、そう言った。
いつもの、平坦な声だった。
けれど。
からん、と音がした。
羽根ペンが、床に落ちていた。
彼女の指から、落ちたのだ。
「あり得ません」と、彼女はもう一度言った。「わたくしの歌は、対象を定めて放ちます。定めた者にしか届きません。四十一人目は、絶対に眠りません。……そのように、線が引けるように、わたくしは、作られました」
その手が、震えていた。
初めて見る、この人の感情だった。
彼女が最初に見せた感情が、恐怖だったことが、なぜだか、たまらなく悲しかった。
「では、起こしてください」
「――」
「イゾルデ様。眠らせたのなら、起こしてください」
彼女は、灰色の瞳で、私を見た。
そして、言った。
「その歌は、教わっておりません」
私の周りから、音が消えた気がした。
「聖歌庁は、眠らせる歌しか、教えません」と、彼女は言った。「起こす必要が、無いからです。眠った者は、いずれ起きます。……起きなかった例は、記録に、ありません」
「今、起きていません」
「――記録に、ありません」
彼女は、同じ言葉を繰り返した。
壊れた楽器のように。
この人は、記録の外に出た瞬間、何もできなくなるように、育てられていた。
「セレスティア」
ジルヴェスター様が、私の背に手を当てた。
「歌え」
「ですが、私の歌は、この劇場には小さすぎます。二千人には、届きません」
「届かせるのは、お前一人の仕事か」
私は、顔を上げた。
彼は、客席を見ていた。
眠り倒れた人々の間に、立っている人たちがいる。
――泣いていた、十五人だった。
グスタフ様が、震える足で、立ち上がっていた。
若い母親が、頬の涙を拭って、こちらを見ていた。
商人が、隣の見知らぬ男の肩を、しっかりと掴んでいた。
私の歌で、眠れなかった人たち。
私の歌で、泣いた人たち。
「歌姫殿」と、グスタフ様が、しゃがれた声で言った。「さっきの歌を、もう一度、やってくれんか」
「……グスタフ様」
「あんたの歌なら、わしは、覚えとる」
老人は、涙で濡れた顔で、笑った。
「一遍聞いただけで、覚えられる歌じゃった。……あんな歌、初めてじゃ」
――ああ。
私は、その時、ようやく分かった。
イゾルデ様の歌は、三百年、聖歌庁が守ってきた「古い歌」だ。
誰にも真似できない。誰にも教えない。だから、囲える。だから、値打ちがある。
私の歌は、子守唄だ。
母が、私に歌ってくれた。私が、覚えた。
一遍聞けば、誰でも覚えられる。厨房の少年も、老兵も、眠れない母親も。
――甘やかしの子守唄。
彼女は、そう呼んだ。
そうです。
これは、誰かを甘やかすための歌です。
そして、誰でも、歌えます。
「皆様」
私は、舞台の中央に立って、二千の客席へ、声を投げた。
「どうか、私と一緒に、歌ってくださいませ」
どよめきが、起きた。
「歌えぬ、と仰る方も、大丈夫です。上手でなくて、構いません。音が外れても、構いません」
「この歌は――そういう歌ですから」
私は、息を吸った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ」
一人だった。
「今日の痛みは、夜が連れていく――」
二人になった。
グスタフ様の、しゃがれた、ひどい音程の声が、重なった。
三人。若い母親の、掠れた声。
五人。十人。
商人が。桟敷の貴婦人が。立ち見の職人が。
舞台袖の係の者が。楽団の楽士が。
二十人。五十人。百人。
――ばらばらだった。
音程は合わず、拍もずれ、上手な人など一人もいなかった。
それは、イゾルデ様の歌のように、美しくはなかった。
世界から音を消したりも、しなかった。
劇場は、うるさかった。
ひどく、ひどく、うるさかった。
最初に目を開けたのは、桟敷の婦人だった。
次が、舞台下の商人。
それから、老兵。若い母親。
眠っていた人々が、一人、また一人と、瞼を開けていく。
自分を呼ぶ、下手くそな歌の中で。
「……なんだ、この歌は」と、目覚めた老兵が、呆れたように呟いた。「ひどい音痴が、二百人はおるぞ」
誰かが、笑った。
笑い声が、広がった。
笑いながら、みんな、まだ歌っていた。
私の隣で、ジルヴェスター様が――
あの、冷徹な公爵が、口を、動かしていた。
ひどく小さな声で、たどたどしく、私の歌を、なぞっていた。
私は、泣きながら、歌い続けた。
全員が目を覚ますまで、四半刻もかからなかった。
二千人の劇場は、誰も、眠っていなかった。
そして、その中央に、ただ一人。
イゾルデ様が、立ち尽くしていた。
彼女は、歌わなかった。歌えなかった。
彼女の周りだけ、音が無かった。
その灰色の瞳が、初めて、何かを映していた。
――羨望だ、と私は思った。
思ってしまってから、胸が、ひどく痛んだ。
「――偶発的な事故です」
ラインハルト卿の声が、劇場を貫いた。
彼は、微塵も動じていなかった。
「当庁の歌唱は、正常に機能いたしました。二十名は、規定どおり入眠。傍聴席の混乱については、登録外歌唱による場の攪乱が原因と推定されます」
「なんですって」
「セレスティア様。あなたは先ほど、二十名の被験者に対し、範囲を制御せずに歌われた」と、卿は言った。「貴領での集団昏睡と、同じ現象です。……あなたが、この劇場を、眠らせかけたのです」
「そんな――!」
「証明できますか?」
彼は、静かに微笑んだ。
「あなたは、原因を測れない。制御もできない。……ただ、結果として、人が眠り、人が起きた。それだけです」
「よって、本審査は延期。イゾルデの認定は継続。登録外歌唱については、引き続き、当庁が監視いたします」
彼は、記録を閉じた。
「以上。――散会」
ざわめきが、劇場を満たした。
私は、拳を握った。爪が、掌に食い込んだ。
勝った。
みんな、見ていた。誰の歌が人を眠らせ、誰の歌が人を起こしたか。二千人が、見ていた。
なのに、この人は、紙の上で、それを無かったことにしてしまう。
「――お待ちなさい、聖務卿」
凛とした声が、劇場に響いた。
二階の、王族の桟敷。
エルフリーデ王女殿下が、立ち上がっていた。
「殿下」と、ラインハルト卿が振り返った。初めて、その声に、わずかな緊張が滲んだ。「これは、当庁の管轄で」
「ええ。あなたの管轄です」と、殿下は言った。「三百年、ずっと、あなた方の管轄でした」
殿下は、手すりに手をかけ、劇場じゅうを見渡した。
「聖務卿。あなたは今、『記録に無い』と仰った。イゾルデも、そう言った」
「――ならば、記録を、見ましょう」
劇場が、静まり返った。
「王家の記録庫は、王宮の東にあります」と、卿が言った。「いつでもご覧に」
「東ではありません」
殿下は、はっきりと言った。
「北の丘の下です。三百年、封じられたままの、旧記録庫」
ラインハルト卿の顔から、初めて、微笑みが消えた。
殿下は、懐から、黒く古びた鍵を取り出した。
高く、掲げた。
「王家の名において、宣言します。――あの扉を、開けます」
お読みいただきありがとうございます。第4章、ここで大きく動きました。
「その歌は、教わっておりません」——聖歌庁は、眠らせる歌しか教えません。イゾルデは、記録の外に出た瞬間、何もできなくなるように「作られて」いました。彼女が生まれて初めて見せた感情が、恐怖だったこと。それが、この物語の一番悲しいところかもしれません。
そして、セレスの歌の本当の強さが、ようやく形になりました。
イゾルデの歌は、誰にも真似できない。だから囲える。だから値打ちがある。
セレスの歌は、一遍聞けば誰でも覚えられる。音痴でも歌える。だから——二千人で歌えるのです。
「甘やかしの子守唄」で結構。誰でも歌えるということが、この歌の、たったひとつの、無敵の力でした。ジルヴェスター様も、こっそり歌っていましたよ。
ですが、ラインハルト卿は紙の上で全てを無かったことにします。勝っても、権威は次の審問を作るだけ。
——だからこそ、エルフリーデ王女が、三百年ぶりに、あの扉を開けます。
次回から第5章「三百年前の断罪」。夜啼きの呪いの、本当の起源が明らかになります。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第41話「三百年、閉じられた扉」でお会いしましょう。




