第39話: 眠らせる歌と、癒す歌
王立歌劇場。
半年前、私が母の楽譜を抱いて立った、あの場所。
あの日、私はここで勝った。歌が「危険」ではないと、この国じゅうに示したはずだった。
同じ場所に、私はまた立っている。
同じことを、また証明させられている。
――勝っても、終わらない。
権威というものは、負けたら、次の審問を作るだけなのだと、私は学びつつあった。
「まあ、お姉様」
傍聴席の最前列から、聞き覚えのある声が飛んだ。
アマーリエだった。
絹はもう着ていない。爵位を失った実家の娘は、けれど、扇だけは手放していなかった。
「今度は、人を眠らせて回っておいでですって? まあ、恐ろしい。……お母様そっくりですこと」
私は、彼女を見た。
そして、何も言わずに、視線を戻した。
昔の私なら、震えていた。
今は、ただ、少し悲しかった。この人は、まだ、あの納屋の前に立っている。
「――審査の形式を、説明いたします」
中央の壇上で、ラインハルト卿が、静かに声を上げた。
声を張らないのに、劇場の隅々まで届いた。この人は、響きの作り方を知っている。
「ここに、二十名の被験者がおります」
舞台の下手に、椅子が二十脚。
座っているのは、みな、王都の人々だった。
目の下に濃い隈のある若い母親。手が震え続けている老兵。虚ろな目の商人。
――眠れぬ者たち。
「彼らは皆、三年以上、まともに眠れておりません」と、卿は言った。「両歌い手には、同じ場で歌っていただきます。何名が眠りに就いたか。それを以て、審査といたします」
「……被験、者」
私の口から、その言葉が漏れた。
「何か?」
「あの方々は、人です」と、私は言った。「数える対象では、ありません」
劇場が、少しざわめいた。
ラインハルト卿は、ほんの少しだけ、片眉を上げた。
「もちろん、人です」と、彼は言った。「ですから、我々は彼らを眠らせるのです。……感傷は、後になさい。彼らは今夜、三年ぶりに眠れるかもしれないのですから」
言い返せなかった。
この人は、いつも、半分だけ正しい。
「では――イゾルデ」
白い装束が、進み出た。
彼女は、椅子も置かず、目を閉じもせず、ただ立って、口を開いた。
劇場から、音が消えた。
二千人の観客の、衣擦れが。咳払いが。誰かの子どもがぐずる声が。
ひとつ、またひとつと、引き算されていく。
誰も、身動きしなかった。できなかった。
そして――二十脚の椅子が、順に、静まっていった。
若い母親の首が、こくりと落ちた。
老兵の震える手が、止まった。
商人が、崩れるように、背もたれに沈んだ。
二十七を数える前に、二十人が、全員、眠っていた。
歌が止む。音が戻る。
劇場が、爆発したように、どよめいた。
「なんという」
「全員だ、全員眠ったぞ」
「三年ぶりだと? あんな、一息で」
拍手が起きた。割れるような拍手だった。
イゾルデ様は、一礼も、しなかった。
ただ、下がった。
褒められることに、彼女は何の反応も示さなかった。
四つの歳から、そうやって「務め」を果たしてきたのだろう。
「――では、登録外の歌い手殿」
私は、舞台の中央へ出た。
二十人は、もう眠っている。
新しく二十人が、連れてこられた。同じように、隈のある人たち。
私は、彼らを見た。
一人ずつ、顔を見た。
いちばん端に、老人がいた。
膝の上で、両手をきつく組んで、震えていた。眠るまいとしているように、見えた。
――ああ。
この方は、眠るのが、怖いのだ。
私は、その人の前に、膝をついた。
「何を」と、係の者が慌てた。「歌い手殿、壇上へお戻りを」
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
老人は、驚いた顔で、私を見た。
「……グスタフ、と」
「グスタフ様。怖い夢を、ご覧になりますか」
老人の目が、潤んだ。
彼は、しゃがれた声で、言った。
「……息子が。白雪の戦で。あの日から、目を閉じると、あいつが吹雪の中から、わしを呼ぶんじゃ」
劇場が、静まり返った。
私は、その手を取った。骨ばった、冷たい手を。
「では、一緒に、聞いていてくださいませ」
そして、私は歌った。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。今日の痛みは、夜が連れていく――」
音は、消えなかった。
私の歌は、二千人の劇場には、小さすぎた。
咳払いも、衣擦れも、そのままだった。
眠ったのは、五人だった。
二十人のうち、たった、五人。
けれど。
グスタフ様は、眠らなかった。
眠らずに、泣いていた。
声を上げて、子どものように、泣いていた。
「……夢に、出とった」と、彼は嗚咽の合間に言った。「今、見えた。あいつが、笑うとった。……怒っとらん。あいつは、怒っとらんかった」
彼だけではなかった。
若い母親が、両手で顔を覆っていた。
商人が、隣の見知らぬ男に、肩を貸してもらって、震えていた。
眠らなかった十五人が、泣いていた。
三年ぶりに、泣いていた。
劇場は、静かだった。
さっきの、割れるような拍手は、なかった。
誰も、拍手の仕方が、分からなかったのだと思う。
「――五名」
ラインハルト卿の声が、その静けさを、断ち切った。
「二十名中、五名。対して、当庁認定歌唱は、二十名中、二十名」
彼は、記録を掲げた。
「以上です」
「お待ちください」と、私は言った。「あの方々は、癒されました。眠れなかった原因に、触れたのです。眠らせた数では」
「では、何で測るのですか」
卿は、静かに私を見た。
「涙の数でしょうか。それとも、心が軽くなった度合いを、目方で?」
私は、答えられなかった。
「セレスティア様。私は、あなたの歌が尊いことを、否定しておりません」と、彼は言った。心底、労わるような声で。「ただ、国家は、測れぬものに免状を出せないのです」
彼は、聴衆を見回した。
「制御できる眠りと、制御できぬ癒し。王国が二千人の眠れぬ民に届けるべきは、どちらでしょうか」
答えは、誰の目にも、明らかだった。
「よって、当庁は、登録外の歌い手セレスティアについて――」
その時だった。
「――先生」
舞台の下手で、係の者が、声を上げた。
誰かを、揺すっていた。
さっき、眠った二十人のうちの一人を。
若い母親だった。
「……起きません」
係の者の声が、裏返った。
「歌が止んで、四半刻が経ちます。ですが、この方――一人も、目を覚まさないのです」
お読みいただきありがとうございます。
二十対五。数字の上では、完敗でした。
「国家は、測れぬものに免状を出せない」——ラインハルト卿は、いつも半分だけ正しい。だからこそ、たちが悪いのです。
ですが、この回でいちばん書きたかったのは、グスタフ老人でした。眠らせてもらえなかった十五人が、三年ぶりに泣いた。息子は、怒っていなかった。……セレスの歌は、痛みを消す歌ではありません。痛みに、名前を呼ばせてあげる歌なのです。
そして、白雪の戦。あの戦で息子を失った父親が、ここに居ました。ジルヴェスター様は、それを客席から聞いていました。
さて。イゾルデが眠らせた二十人が、目を覚ましません。
次回、第4章のクライマックスです。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第40話「目覚めない客席と、たった一つの子守唄」でお会いしましょう。




