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第38話: 王都の地下で、何かが軋んでいる

 審査の前夜、それは来た。


 新月では、なかった。

 ただの、月の明るい晩だった。


 夜半、宿館の寝室で、ジルヴェスター様が跳ね起きた。


「――ぐ、っ」


 彼の周りの空気が、鳴った。


 髪が逆立ち、指先から青白い光が散った。窓の外で、晴れていたはずの空に、雷が走った。

 四年間、この人を苛み続けた音。城の窓を鳴らし続けた、あの唸り。


「ジルヴェスター様!」


 私は寝台に飛び乗って、彼の手を握った。


「なぜだ」と、彼は歯を食いしばって言った。「呪具は……砕いた。叔父上は、塔の中だ。なぜ、いま」


「歌います。喋らないで」


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ――」


 ――そして、また、私の歌が、降りていった。


 床を抜けて、石畳を抜けて、下へ。

 王都の地面の、ずっと下へ。


 そして、応えがあった。


 あの夜と、同じだった。

 鐘の内側にいるような、低い、低い共鳴。


 けれど今度は、私には、はっきりと分かった。


 ――方角が、ある。


 北。

 王宮の、北。丘の下。


 共鳴は、そこから来ていた。そして、それは、歌だった。


 旋律ではない。言葉でもない。

 ただ、私の子守唄と同じ拍で、同じ息継ぎで、地の底から、何かが震えていた。


 まるで、三百年、口を塞がれた誰かが、それでも喉を鳴らし続けているような。


 私は、歌うのをやめた。


 共鳴が、消える。

 ジルヴェスター様は、汗みずくで、荒く息をついていた。魔力の光は、収まっていた。


「……聞こえたか」と、彼が言った。


「はい」


「北だ」


「はい」


 私たちは、しばらく、何も言えなかった。


「あれを見ろ」


 ジルヴェスター様が、寝台の脇の小箱を指した。


 中には、黒い硝子のような欠片が入っている。

 あの決戦の夜に砕けた、叔父様の呪具の破片。彼が証拠として保管していたものだ。


 私は、息を呑んだ。


 欠片が、動いていた。


 箱の底で、じり、じり、と。針が磁石に引かれるように、少しずつ、少しずつ向きを変えて――


 北を、向いていた。


「王都に着いてから、ずっとだ」と、彼は言った。「初めは気の迷いかと思った。だが、この破片は、あの丘の方角を指し続けている」


「呪具の欠片が……何かに、引かれている?」


「引かれているのではない」


 彼の声が、掠れた。


「――呼んでいるのかもしれん。親を、探すように」


 その時、窓の外が、暗くなった。


 月を、大きな影が横切ったのだ。


「ぎゃ、あ」


 私の肩で、ルルが小さく鳴いた。怯えではなかった。喜びでもなかった。もっと切実な、呼びかけるような声。


 空の高いところで、応える声があった。


 ――親竜だった。


 辺境の塔にいるはずの、あの大きな竜が、王都の空にいた。

 子を追ってきたのだろうか。それとも。


 親竜は、王宮の上を、ゆっくりと旋回した。

 そして、北の丘の上で、止まった。


 止まって、鳴いた。


 長い、長い声だった。悲しい声だった。

 私は、その声を、どこかで聞いたことがある気がした。


「……竜は、古いものを覚えているそうです」と、私は呟いた。


「あの竜は、何歳だ」


「ハンナは、自分が城に来る前から居た、と」


 ジルヴェスター様は、窓の外を見上げたまま、言った。


「三百年、生きているかもしれん」


 翌朝、ブリュンヒルデ様が、調べた結果を携えて戻ってきた。


「北の丘の下は、旧記録庫でございます」


「三百年前の大火で焼け落ち、そのまま封鎖されております。以後、王家は新しい記録庫を、王宮の東に建てました」

「――ただ、妙なのです」


「妙とは」


「焼け落ちた建物を、なぜ、三百年も封鎖し続けるのでしょうか。更地にするか、建て直せばよいものを」


 誰も、答えられなかった。


 その日の午後、ジルヴェスター様は、長いこと黙っていた。

 そして、ぽつりと言った。


「セレスティア。我が家の広間に、初代の肖像があるのを、覚えているか」


「はい。……あの、鎧のお姿の」


「あれを、よく思い出してみろ。あの男は、何を持っている」


 私は、記憶を辿った。

 嵐の辺境を拓いた、初代ヴァルトハイム公。厳めしい鎧。腰には剣。そして、左手には――


「……巻物?」


「楽譜だ」と、彼は言った。「私は幼い頃、あれを軍旗の図面か何かだと思っていた。だが、あれは、五線だ」


 武門の家の、初代の肖像。

 剣を佩き、鎧を着た男が、なぜ、楽譜を抱いているのか。


「もうひとつ、ある」と、彼は続けた。「ヴァルトハイム家の家譜には、初代がなぜ辺境へ移されたのか、書いていない」


「書いていない?」


「『功により、東の最果てを賜る』――それだけだ」


 彼は、乾いた声で笑った。


「セレスティア。考えてみろ。功を立てた者に、王が与えるのは、王都に近い豊かな土地だ。……嵐しか吹かぬ最果てを『賜る』のは、褒美か?」


 私の背筋が、冷えた。


「ヴァルトハイム家は、三百年、それを誉れだと信じてきた」と、彼は言った。「武門の家。王国の盾。北の嵐を一身に受ける、名誉ある辺境伯だと」


 彼は、北の丘を見た。


「――だが、あれは、流されたのかもしれん」


 その夜、私は眠れなかった。


 北の丘の下で、何かが軋んでいる。

 叔父様の呪具の欠片が、そちらを向いている。三百年生きた竜が、その上で鳴いている。初代の肖像は、楽譜を抱いている。


 そして、私の歌に、あれは、応えた。


 ――同じ拍で。同じ息継ぎで。


 私は、ようやく、それを口に出した。

 隣で、同じように眠れずにいた人に。


「ジルヴェスター様。……夜啼きの呪いの根は」


「ああ」


 彼は、天井を見つめたまま、言った。


「叔父上では、なかった」


お読みいただきありがとうございます。


第2部の骨格が、ようやく姿を現しはじめました。


砕いたはずの呪具の欠片が、王都の北を指し続ける。三百年封鎖されたままの旧記録庫。その上で鳴く、三百年生きた竜。楽譜を抱いた初代公の肖像。そして家譜から欠落した、辺境送りの理由——「功により、東の最果てを賜る」。


嵐しか吹かない最果てを与えられることが、はたして褒美でしょうか。


セレスの歌に応えた、地の底の共鳴。同じ拍で、同じ息継ぎで震えていたそれは、三百年、口を塞がれたまま、それでも喉を鳴らし続けている誰かのようでした。


叔父アーダルベルトは、黒幕ではありませんでした。彼は、鍵を見つけただけだったのです。


次回、いよいよ認定審査。眠らせる歌と、癒す歌が、同じ舞台に立ちます。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第39話「眠らせる歌と、癒す歌」でお会いしましょう。


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