第36話: 私の歌が、誰かを眠らせすぎた夜
新月の夜が来た。
月に一度、城が軋む夜。
その晩、ジルヴェスター様の魔力は、いつもより強く唸った。窓硝子が鳴り、燭台の火が横倒しになり、遠くで雷の匂いがした。
「……大丈夫です」
私は彼の手を握って、歌い出した。
「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。今日の痛みは、夜が連れていく――」
その瞬間だった。
私の声が、私の声でないみたいに、遠くまで届いた。
いつもなら、この歌は、部屋の中で溶ける。彼と私の間に落ちて、それで終わる。
なのに、その夜の私の歌は――降りていった。
床を抜けて、石を抜けて、城の下へ。ずっと、ずっと下へ。
そして、下の方から、何かが、応えた気がした。
低い、低い、共鳴。
鐘の内側にいるような、地鳴りのような、震え。
「……え?」
私は歌うのをやめた。
途端に、それは消えた。
窓の外は、静かだった。嵐は、とうに凪いでいた。
ジルヴェスター様は、私の手を握ったまま、穏やかに眠っていた。
――今のは、何。
私は、自分の喉に手を当てた。
喉は、まったく、痛くなかった。
三百数える必要も、なかった。
私は、十も数えないうちに、彼を眠らせていた。
異変が知れたのは、朝だった。
「奥方様! ハンナ様が、お目覚めになりません!」
侍女の悲鳴で、私は駆け出した。
ハンナは、自室の椅子で眠っていた。編みかけの毛糸を膝に乗せたまま。
揺すっても、名を呼んでも、頬に触れても、起きなかった。
彼女だけではなかった。
当直の騎士が二人、廊下で。厨房の下働きの少年が、竈の前で。
みな、穏やかな顔で、眠っていた。
「息はある」と、ブリュンヒルデ様が確かめて言った。「脈も、正常だ。……ただ、起きない」
私の膝が、震えた。
昨夜、私の歌が届いた範囲。
寝室から――この、東の棟の、ぜんぶ。
「私が」
声が、掠れた。
「私が、眠らせたのですか」
「ごらんなさい」
白い装束が、廊下の向こうに立っていた。
イゾルデ様は、眠る騎士の傍らに膝をつき、瞼を指で押し上げ、瞳孔を検めた。そして、羽根ペンを走らせた。
『登録外歌唱、範囲逸脱。対象外七名に深度到達。制御、不能』
「制御できぬ歌は、害です」
彼女は、立ち上がって、私を見た。
「わたくしは、四十人を眠らせられます。ですが、四十一人目を眠らせることは、絶対にありません。……線が引けるからです」
「あなたには、線がない。だから、あなたは、愛する者を眠らせるついでに、無関係な少年を眠らせる」
「そんなつもりは」
「つもりの話は、しておりません」
冷たい言葉ではなかった。
彼女は、ただ、記録を読み上げるように言っただけだった。
「――結果の話をしております」
私は、何も言い返せなかった。
厨房の少年は、まだ十二だった。
昨夜、私は彼の名前すら、思い出せなかった。
私は、必死に歌った。
起きて、と願いながら、目覚めの歌があるなら、それを。
けれど、私の喉から出るのは、子守唄だけだった。
眠らせる歌しか、私は、知らなかった。
歌えば歌うほど、彼らは、深く眠っていくように見えた。
私は、途中で歌えなくなった。
自分の歌が、怖くなったのは、生まれて初めてだった。
「セレスティア」
ジルヴェスター様が、私の肩を抱いた。
「お前のせいではない」
「ですが」
「昨夜のあれは、お前の歌ではない」と、彼は言った。低く、確信を込めて。「私は聞いていた。眠りに落ちる寸前まで。……あの時、この城の下で、何かが鳴った」
私は、顔を上げた。
「ジルヴェスター様も、お聞きになったのですか」
「聞いた」と、彼は言った。「四年、私を眠らせなかった音に、よく似ていた」
ハンナたちが目を覚ましたのは、その日の夕暮れだった。
まる一日、眠って。
起きた彼女は、けろりとしていた。
「まあ、私、寝過ごしましたか? いやですねえ、この歳になると」
誰も、彼女を責めなかった。
誰も、私を責めなかった。それが、何より応えた。
城の者たちは、私と目が合うと、ほんの少しだけ、遅れて微笑むようになった。
ほんの、少しだけ。
――ああ、これだ。
私は、思い出していた。
実家の納屋で、そう見られていた。
「近寄らない方がいい」と、そう見られていた。
一年かけて、この城で溶かしてもらったはずのものが、たった一晩で、戻ってきた。
その夜、王都からの早馬が、書状を運んできた。
『鎮魂の歌い手認定審査を、来る月の満ちる日、王立歌劇場にて公開にて執り行う。
なお、貴領にて発生した「登録外歌唱による集団昏睡」の件は、審査の重要議題として取り扱うものとする。
聖務卿 ラインハルト・フォン・ケルバー』
――昨日の朝の出来事が、もう、王都に届いている。
私は、白い装束の方を見た。
イゾルデ様は、羽根ペンを置いて、静かに立っていた。
その顔には、勝ち誇ったところも、悪びれたところも、何ひとつ、無かった。
お読みいただきありがとうございます。
セレスの歌が、届いてはならないところまで届いてしまった夜。城の七人が、まる一日眠り続けました。
「あなたには、線がない」――イゾルデの指摘は、残酷ですが、事実です。
そして第1部で勝ち取ったはずの「危険ではない歌い手」という信用が、たった一晩で揺らぎ始めます。城の人々の、ほんの少しだけ遅れる微笑み。あの納屋の日々を、セレスは思い出してしまいます。
ですが、ジルヴェスター様は聞いていました。あの夜、城の「下」で鳴った何かを。四年間、彼を眠らせなかった音に、よく似た何かを。
次回、舞台は王都へ。そして、聖務卿ラインハルトが姿を現します。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第37話「王都は、歌い手を『登録』したがる」でお会いしましょう。




