第35話: 笑わない歌姫と、怯える子竜
イゾルデ様は、城に留まった。
歌うことは、もうなかった。
彼女がしていたのは、観測だった。
朝、私が厨房でハンナと話していると、廊下の柱の陰に、白い装束が立っている。
昼、中庭でルルに木の実をやっていると、回廊の向こうから、灰色の瞳がこちらを見ている。
夜、私が寝室で歌うと、扉の外に、彼女の気配がある。
そして、羽根ペンが走る音がする。
『登録外歌唱、確認。旋律は民間の子守唄に類似。効果、限定的。対象は入眠までに三百を要す。――非効率』
一度だけ、私は言ったことがある。
「効率が、大切でしょうか」
「ええ」と、イゾルデ様は即答した。「王国には、眠れぬ者が二千人おります。わたくしの歌なら、一晩で四十人を眠らせられます。あなたのそれは、一晩で一人です」
――甘やかしの子守唄。
彼女は、私の歌を、そう呼んだ。
「一人ずつしか救えぬものを、力とは呼びません」
その日の午後、私は思い切って、彼女の隣に座った。
中庭の、氷の薔薇の前。彼女はいつものように、ただ立っていた。
「イゾルデ様。お好きな食べ物は、何ですか」
彼女は、私を見た。
質問の意図を探る目ではなかった。質問そのものが、理解できない目だった。
「……食事は、喉に障らぬものを、聖歌庁が定めております」
「では、お好きなものは」
「好き、とは」
私は、言葉に詰まった。
「お休みの日は、何をなさいますか」
「休みは、ございません」
「ご家族は」
「聖歌庁が、家です」
どの答えも、澱みなかった。用意された答えを読み上げる口ぶりでもない。ただ――彼女の中に、他の答えが、存在しないだけ。
「……イゾルデ様の、お名前は」
「イゾルデです」
「姓は」
初めて、ほんの少しだけ、間が空いた。
「――ございません」
彼女は、前を向いたまま言った。
「歌い手に姓は不要です。入庁の際に、捨てました。四つの歳でしたので、何を捨てたのかは、覚えておりません」
四つ。
私は、その一語を、うまく飲み込めなかった。
この人は、私が母に子守唄を教わっていた歳に、名前以外のすべてを差し出したのだ。
「イゾルデ様は、歌うことが」
好きですか、と聞こうとして、私は口をつぐんだ。
聞いてはいけない気がした。聞けば、この人が壊れる気がした。
ぱたぱた、と羽音がした。
ルルだった。私の膝を目指して滑空してきた子竜は、イゾルデ様の姿を認めた瞬間、空中で急停止した。
「あら」
イゾルデ様が、手を伸ばした。
初めて見る、人間らしい仕草だった。
ルルは、牙を剥いた。
喉の奥から、聞いたことのない音が出た。愛嬌のある鳴き声ではない。低く、長く、地面を這うような――威嚇。
小さな体の羽が逆立ち、瞳孔が針のように細くなっていた。
「ルル! どうしたの」
私が抱き上げると、ルルは私の胸に潜り込んで、震えた。
「竜は、古いものを覚えておりますから」
イゾルデ様は、伸ばした手を、静かに下ろした。
拒まれたことに、傷ついた様子は、微塵もなかった。
「……古いもの、とは」
「わたくしの歌です」と、彼女は言った。「あなたのそれより、ずっと古い。三百年、聖歌庁が守ってまいりました」
三百年。
私の腕の中で、ルルが、また低く唸った。
塔の上のほうで、それに応えるように――ルルの親竜が、一声、鳴いた。
風のない午後だった。
なのに、氷の薔薇の花びらが、かすかに震えていた。
その夜、ハンナが、震える手で私の部屋の扉を叩いた。
「奥方様。……申し上げるべきか、ずっと迷っておりました」
彼女は、顔色を失っていた。
「あの歌い方を、私は、聞いたことがございます」
「え?」
「二十年前でございます。宮廷で。……エレオノーラ様と、お仕えしておりました頃に」
母の名に、私の心臓が跳ねた。
「あの日、宮廷の奥から、歌が聞こえてまいりました。美しくて、美しくて――部屋から、音が消えていくような歌でした」
「エレオノーラ様は、それをお聞きになって、真っ青になられました。そして、私の手を握って、こう仰ったのです」
ハンナは、息を吸った。
「『ハンナ。あれは、歌ではありません。あれは――猿轡です』」
翌朝。
私が中庭に出ると、イゾルデ様が、先に立っていた。
彼女は、私を待っていたようだった。
「セレスティア様」
初めて、彼女は私を名前で呼んだ。
「あなたの母上のことは、記録で存じております。エレオノーラ。登録を拒み、宮廷を追われ、地方で亡くなられた」
「……母を、侮辱なさるおつもりですか」
「いいえ」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「同じ道を行かれます、と申し上げているのです」
彼女の声には、悪意がなかった。
悪意がないことが、この上なく恐ろしかった。
「登録を拒んだ歌い手は、消えます。二十年前も、三百年前も、そうでした。……ですから、わたくしは、あなたを助けに参ったのです」
「助ける?」
「ええ」
そして、イゾルデ様は、静かに言った。
「登録なさい。歌うのをおやめなさい。そうすれば、あなたは、生きていられます」
お読みいただきありがとうございます。
「四つの歳に、名前以外のすべてを捨てました」――イゾルデは、セレスの座を奪いに来た冷たい敵です。ですが、この人は一度も笑わず、好きなものも、望みも、休みの日の過ごし方も、答えられません。
そしてハンナが二十年前に聞いた、母エレオノーラの言葉。
「あれは、歌ではありません。あれは――猿轡です」
三百年、聖歌庁が守ってきた「古い歌」。ルルの親竜が覚えているもの。少しずつ、この物語の本当の根っこが顔を出してきます。
次回、セレスの歌に異変が起きます。眠らせるはずのない相手まで、眠らせてしまう夜が来ます。
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皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第36話「私の歌が、誰かを眠らせすぎた夜」でお会いしましょう。




