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第34話: 「私が求めるのは、君の声だ」

 二晩目の朝は、もっとひどかった。


 ジルヴェスター様は、朝の鍛錬で、剣を取り落とした。


 広い訓練場に、金属の音が、乾いて響いた。

 騎士たちが凍りついた。この人が剣を落とすところなど、誰も見たことがなかったからだ。


「……閣下?」


 ブリュンヒルデ様が駆け寄る。ジルヴェスター様は、自分の手のひらを、不思議そうに見下ろしていた。


「握っていたはずだ」と、彼は言った。「握っていた感覚が、無い」


 その日の午後、私は、廊下の角で、聞いてしまった。


「――閣下。恐れながら、申し上げます」


 ブリュンヒルデ様の声だった。硬く、震えていた。


「先ほど、閣下は、ヴィルヘルムの名を、お忘れになりました」


 私は、足を止めた。


 ヴィルヘルム。

 白雪の戦で亡くなった、ジルヴェスター様の副官の名だ。以前、ブリュンヒルデ様が一度だけ、そっと教えてくださった。あの吹雪の夜、最後まで閣下の名を呼びながら、雪に沈んでいった人。

 ジルヴェスター様が四年、赦しを乞い続けてきた相手。


「……なんだと」


「先ほどの戦没者名簿の確認で、閣下は、その名の前で止まられました。そして、『これは誰だ』と、仰いました」


 沈黙が、長かった。


「――私は」


 ジルヴェスター様の声は、聞いたこともないほど、掠れていた。


「私は、あの男の名を、忘れたのか」


「閣下」


「四年だ」と、彼は言った。「四年、私はあの男に赦しを乞うために、眠れずにいた。あの夜、吹雪の向こうで、私を呼ぶ声を聞き続けた。……それが、私の罰だ。私が背負うと決めた、たった一つの――」


 言葉が、途切れた。


「たった二晩で」


 私は、壁に背を預けたまま、動けなかった。


 ああ、と思った。

 そういうことだったのだ。


 イゾルデ様の歌は、痛みを消す。

 痛みを消すということは――痛みの元になった人を、消すということだ。


 あの人にとって、悪夢は、呪いであると同時に、たったひとつ残された「弔い」だった。

 彼女の歌は、それごと、彼から引き算していた。


 その夜。


 白い装束が寝室に入ろうとしたとき、ジルヴェスター様は、扉の前に立ちはだかった。


「出ていけ」


「閣下。王命でございます」


「三晩目は無い」


 彼の声には、もう迷いがなかった。


「イゾルデといったな。お前の歌は、見事だ」と、彼は言った。「認めよう。あれは、確かに私を眠らせた。四年、誰にもできなかったことだ」


 イゾルデ様は、何も答えなかった。褒められても、彼女の表情は動かなかった。


「だが、あれは眠りではない」


 ジルヴェスター様は、はっきりと言った。


「あれは、停止だ。……お前は、私から夢を奪った。悪夢ごと、私が背負うと決めたものを、勝手に持ち去った」


「痛みは、不要でございます」と、イゾルデ様は言った。「取り除けるものを、なぜ抱えるのですか」


「取り除けるからといって、取り除いていいものではない」


 彼は、静かに続けた。


「私は、忘れるために眠るのではない。……覚えたまま、眠りたいのだ」


 その言葉に、私の視界が、滲んだ。


「聖歌庁は、閣下の眠りに責を負っております」


「要らん」


「登録なき歌い手の歌は、王国では」


「――私が求めるのは」


 ジルヴェスター様は、振り返った。

 部屋の隅で、影のように立っていた私を、まっすぐに見た。


 その目には、光が戻っていた。


「私が求めるのは、君の声だ。セレスティア」


 扉が閉まり、白い装束が去ったあと。


 ジルヴェスター様は、私の前まで来て、そして――膝を折った。


 公爵が。この、誰にも頭を下げたことのない人が。

 私の手を取って、額を、そこに押し当てた。


「すまなかった」


「ジルヴェスター様……」


「お前を楽にしてやりたかった。それは本当だ」と、彼は言った。「だが、私は取り違えた。お前の歌は、私が『負担』と呼んでいいものではなかった。あれは――」


 彼は、言葉を探した。この不器用な人が、必死に探した。


「あれは、私の弔いに、付き合ってくれる声だった」


 私は、崩れるように、彼の前に膝をついた。

 冷たかった手を、両手で包んだ。


「……お帰りなさいませ」


 それしか、言えなかった。


「歌ってくれるか」と、彼は言った。命令ではなかった。「頼む、セレスティア。……私は、ヴィルヘルムに、もう一度会わねばならん」


「はい」


 その夜、私は歌った。


「ねむれ、ねむれ。風のこ、嵐のこ。今日の痛みは、夜が連れていく――」


 音は、消えなかった。

 薪が爆ぜて、風が鳴って、ルルが塔の上から鳴き返して、世界はうるさいくらいに、そこにあった。


 彼が眠るまでに、二十七ではなく、三百は数えた。


 そして彼は、うなされた。

 眉を寄せて、汗をかいて、掠れた声で、失った男の名を呼んだ。


 私は、その手を握って、歌い続けた。


 ――そうです。それでいいのです。

 痛いままで、いいのです。私が、一緒にいますから。


 やがて、彼の呼吸が、ゆっくりと凪いでいった。

 悪夢を見たまま、彼は、深く眠った。


 朝、目を覚ました彼は、開口一番、こう言った。


「腹が減った」


 私は、声を上げて笑ってしまった。

 笑いながら、涙が出た。


 けれど。


 その朝、聖歌庁の使者は、城を発たなかった。


「イゾルデ様の滞在は、認定審査の日まで、王命により継続でございます」


 役人は、にこやかに書状を掲げた。


「閣下が当庁の歌唱を拒まれたことも、審査の場で、正しく報告いたします。――『登録外の歌い手が、公爵閣下を独占している』と」


お読みいただきありがとうございます。


イゾルデの歌が奪っていたものの正体は、「痛み」ではなく、公爵にとってたったひとつ残された「弔い」でした。副官ヴィルヘルムの名を忘れた朝、彼は自分が何を差し出してしまったのかを知ります。


「私は、忘れるために眠るのではない。覚えたまま、眠りたいのだ」――そして、膝をついての「私が求めるのは、君の声だ」。


セレスの歌は、痛みを消す歌ではありません。痛いまま、隣にいてくれる歌です。二人の答えは、これで出ました。


……ですが、王都は、そうは受け取ってくれません。「登録外の歌い手が、公爵を独占している」。次回から、風向きが変わります。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第35話「笑わない歌姫と、怯える子竜」でお会いしましょう。


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