第33話: 眠っているのに、休めていない
翌朝、ジルヴェスター様は、いつもより早く目を覚ました。
「おはようございます」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
そして――少しの間、私が誰なのか、思い出せないような顔をした。
ほんの一瞬だった。次の瞬間には、いつもの彼に戻っていた。
「……ああ。おはよう、セレスティア」
「よく、お休みになれましたか」
「よく眠った」と、彼は答えた。「夢も見なかった」
嬉しいはずの言葉だった。
なのに、私の指先は冷えていった。
彼の目が、笑っていなかったからだ。
この一年で、私はこの人の目を、誰よりも見てきた。眠れた朝の彼は、瞳の奥に光が戻る。ほんの少し、子どものような顔をする。「腹が減った」と、ぶっきらぼうに言う。
今朝の彼の瞳は、凪いでいた。
凪ぎすぎていた。まるで、風の吹かない湖のように。
「四年ぶりでございますよ、奥方様!」
朝の広間で、ハンナは涙ぐんでいた。
「一晩じゅう、閣下は微動だになさらなかったのです。あんなに深く……ああ、聖歌庁の歌い手様は、やはり本物でいらっしゃるのですね」
言ってから、ハンナは慌てて口を押さえた。私を見て、しまった、という顔をした。
その気遣いが、いちばん痛かった。
「いいえ、ハンナ。喜ばしいことですわ」
私は微笑んだ。上手に微笑めたと思う。
聖歌庁の使者たちは、朝から羽根ペンを走らせていた。
『対象、入眠まで二十七を数える。中途覚醒なし。魔力の逸脱なし。――当庁認定歌唱の有効性、明白なり』
紙の上では、完璧だった。
誰も、彼の目が凪いでいることなど、書いていなかった。
朝食の席で、ジルヴェスター様はスープを半分残した。
「お口に合いませんでしたか」
「……いや」と彼は言い、それから少し、眉を寄せた。「何を食べたか、思い出せん」
今、口に運んだばかりのものを。
私は、なんでもないふうを装って、彼の手に触れた。
冷たかった。眠った人の手ではなかった。
塔からルルが降りてきて、いつものように彼の肩を目指し――途中で、羽ばたきを止めた。
小さな子竜は、宙で一度、ためらった。そして、彼の肩ではなく、私の肩に降りた。
喉の奥で、ぐるる、と低く鳴いた。
怯えている時の声だった。
午後、私は中庭でイゾルデ様を捕まえた。
彼女は、氷の薔薇の前に立っていた。眺めているのではなく、ただ、そこに立っていた。
「イゾルデ様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「昨夜の歌は――閣下を、癒しておられますか」
彼女は、初めて、少しだけこちらを向いた。
私の質問の意味が、本当に分からない、という顔だった。
「癒す?」
その一語を、彼女は、聞き慣れない外国語のように発音した。
「なぜ、そのようなことを? 閣下は眠っておいでです。魔力は暴走しておりません。求められた務めは、果たされております」
「でも、悪夢は」
「悪夢は、見ておられません」と、イゾルデ様は言った。「何も、見ておられませんから」
――何も、見ていない。
背筋が、ぞっとした。
「あの方は、痛みを抱えておいでです」と、私は言った。「白雪の戦の記憶を。それを、なかったことにするのではなく、抱えたまま眠れるように――」
「それは、あなたのお仕事ですか?」
イゾルデ様は、静かに遮った。
「歌い手の務めは、眠らせることです。人の心の中身は、我々の管轄ではありません。……余計なものを持ち込むから、あなた方は『危険』と呼ばれるのです」
我々。あなた方。
彼女の中では、線は、とうに引かれていた。
「私は」と、言いかけて、やめた。
何を言っても、届かない気がした。彼女は、そう教わったのではない。そう、作られたのだ。
立ち去りかけた彼女の襟元が、風でわずかに乱れた。
その下、白い喉の付け根に――何かが、見えた。
焼き印のような、小さな紋章。
閉じた唇に、月。
聖歌庁の、徽章だった。
その夜。
「もう一晩、試す」
ジルヴェスター様は、寝台の縁に腰かけて、そう言った。
私は、耳を疑った。
「……ジルヴェスター様?」
「一晩では判じきれん」と、彼は言った。それから、私を見なかった。「……それに、な」
彼の指が、私の手を取った。
彼の指は、まだ冷たかった。
「セレスティア。お前は、この四年――いや、嫁いできてからの一年、毎晩、喉が裂けるまで歌ってきた。私のために」
「そんな、私は」
「私は、それを、当たり前のように受け取ってきた」
彼の声は、静かだった。静かで、優しかった。
「お前が眠らずに歌う夜が、あってはならん。……もし、あの女の歌でお前が解放されるのなら、私は、それを検めねばならん」
――ああ。
私は、悟ってしまった。
この人は、私のために、あの歌を受けようとしている。
私を苦しみから解き放とうとして、私からいちばん大切なものを、取り上げようとしている。
優しさだった。
まぎれもない、この不器用な人の、精一杯の優しさだった。
だから、私は、「嫌です」と言えなかった。
「……はい」
そう答えるのが、精一杯だった。
扉が開いて、白い装束が入ってくる。
私はまた、部屋の隅に立たされる。
歌が始まり、世界から、音が引き算されていく。
薪の音が消え、風の音が消え、私の名を呼んでくれる声が消えて――
二十七を数える前に、彼は、眠りに落ちた。
私は、部屋の隅で、自分の喉に手を当てていた。
ここに、まだ、歌はある。
あるのに――もう、要らないのだと。
誰も、私に言わなかった。
言われなくても、分かってしまった。
お読みいただきありがとうございます。
イゾルデの歌は「眠らせる」歌であって、「癒す」歌ではない。眠っているのに休めていない――それに気づいたのは、この城でセレスただ一人。けれど彼女が声を上げれば、それは「歌の座を奪われた女の嫉妬」にしか聞こえません。
そして何より残酷なのは、ジルヴェスター様がイゾルデの歌を受け入れた理由が、「セレスを毎晩歌わせずに済ませたい」という、彼なりの優しさだったこと。
ですが、ご安心ください。次回、この不器用な公爵様は、ちゃんと答えを出します。
「私が求めるのは、君の声だ」――お待たせしました、甘さの回です。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第34話「『私が求めるのは、君の声だ』」でお会いしましょう。




