表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/37

第32話: 「あなたの代わりは、もう居ります」

 その一団は、朝靄の中を、音もなく登ってきた。


 白い馬車。白い装束。聖歌庁の紋章――閉じた唇に、月をあしらった徽章。

 嵐の辺境の泥道を来たというのに、彼らの裾には、汚れひとつなかった。


 馬車から降り立った娘を見て、私は、息を呑んだ。


 美しい人だった。

 銀に近い淡い金の髪を、一筋の乱れもなく結い上げて。灰色の瞳は、湖の底のように静かで。年の頃は、私とそう変わらない。


 けれど――何かが、おかしかった。


 長い旅の終わりに、人は普通、息を吐く。城を見上げて目を細めたり、迎えの者に会釈をしたり、風の冷たさに首をすくめたりする。

 彼女は、そのどれもしなかった。


 ただ、まっすぐに立っていた。

 まるで、置かれた楽器のように。


「聖歌庁認定、鎮魂の歌い手。イゾルデと申します」


 彼女は、私を見た。目が合った。

 その瞳は、何も映していなかった。


「あなたが、登録外の歌い手ですね」


 声は澄んでいて、抑揚がなかった。

 嘲りでも、敵意でもない。ただ、事実を確認するだけの声。それが、どんな侮辱よりも、私の足元を冷やした。


「……セレスティア・フォン・ヴァルトハイムと申します。ようこそ、我が城へ」


 精一杯の礼をとった私に、イゾルデ様は、何も返さなかった。

 微笑みも、頷きも、まばたきさえも。


 ――この人は、笑わない。

 そう気づいたとき、背筋を、細い針が滑り落ちた。


 白い一団が城の広間へ通されたのは、それから間もなくのことだった。


「帰れ」


 現れたジルヴェスター様の第一声が、それだった。


「我が城に、聖歌庁の世話になる者はいない。呪いはもう砕いた」


「いいえ、閣下」と、イゾルデ様は言った。「閣下は、まだ眠れておいでではありません」


 広間の空気が、止まった。


「新月の晩に、この城の窓が鳴ると聞き及んでおります。魔力の残滓が、四年ぶんの澱みとなって血に残っている。放置すれば、いずれまた」


「……なぜ、それを知っている」


「聖歌庁は、王国の眠りを預かっておりますので」


 彼女は、淀みなく答えた。用意された答えではなかった。ただ、そう教え込まれた者の答え方だった。


「王命により、貴領に参りました。閣下の夜啼きの呪いは、当庁が責を負って鎮めます」と、イゾルデ様は続けた。「――一晩だけ、お試しくださいませ。それで不要とご判断なさるなら、明朝、王都へ戻ります」


「試す必要はない」


 ジルヴェスター様は、私を見た。

 その目に浮かんでいたのは、確信だった。この四年間、彼を眠らせたのは私だけだという、疑いようのない確信。


 ――お願い、そのまま帰らせて。

 そう思ってしまった自分が、たまらなく醜くて、私は俯いた。


「閣下」


 沈黙を破ったのは、ブリュンヒルデ様だった。

 彼女は苦しげに、けれど騎士として、言うべきことを言った。


「……王命を、門前で追い返せば、口実を与えます。ファルクの時と、同じ轍を」


 ジルヴェスター様の顎が、硬く強張った。

 彼は、長く息を吐いた。


「一晩だ」


 その夜。

 私は、寝室の隅に立たされた。


 立ち会いは許された。歌うことは、許されなかった。


 イゾルデ様は、寝台の傍らに、椅子も置かずに立った。

 手を組むこともせず、目を閉じることもせず。ただ、口を開いた。


 ――音が、消えた。


 それが、私の最初の感想だった。

 彼女の歌は、旋律ではなかった。歌が広がるにつれ、部屋から音が抜けていくのだ。暖炉の薪が爆ぜる音。窓の外の風の音。ハンナの衣擦れ。ルルの、塔からの遠い鳴き声。

 ひとつ、またひとつと、世界から音が引き算されていく。


 最後に残ったのは、彼女の声だけだった。

 美しかった。恐ろしいほど、美しかった。

 その美しさは――夜更けの雪原に似ていた。誰の足跡もない。誰も、生きていない。


 私の子守唄は、痛みを「連れていく」歌だ。

 この人の歌は、痛みごと、その人を「消す」歌だった。


 寝台の上で、ジルヴェスター様の瞼が、落ちた。


 ――三十も数えないうちに。


 私が、四年かけて、少しずつ、少しずつ、ほどいてきた人が。

 毎晩、喉が枯れるまで歌って、ようやく寝息をひとつもらえた人が。


 あんなに、簡単に。


 膝が、笑った。

 壁に手をつかなければ、その場に座り込んでいたと思う。


 やがて、歌が止んだ。

 部屋に音が戻ってくる。薪が爆ぜ、風が鳴り、私の心臓が、うるさいほどに鳴っていた。


 イゾルデ様は、振り返りもせずに言った。


「お聞きになりましたか」


 その声には、勝ち誇ったところが、微塵もなかった。

 だから、余計に、逃げ場がなかった。


「これが、鎮魂の歌です。……あなたのそれは、ただの子守唄です」


 彼女は、静かに歩き出し、私の横を通り過ぎる時、ようやく一度だけ、こちらへ顔を向けた。


 灰色の瞳が、私を映さないまま、言った。


「あなたの代わりは、もう居ります。もう、無理をなさらなくてよいのです」


 扉が閉まる。

 寝室には、ジルヴェスター様の寝息だけが残った。


 深く、規則正しく、穏やかな寝息。

 私がずっと、聞きたかった音。


 ――どうして。

 どうして、こんなに、恐ろしいのでしょう。


 私はその夜、彼の寝顔を見つめたまま、一睡もできなかった。


お読みいただきありがとうございます。


「私の歌でしか、あの人は眠れない」――セレスの唯一の武器であり、たったひとつの居場所が、たった一晩で揺らぎました。


ですが、イゾルデの歌には、誰も気づいていない決定的な違いがあります。それは「眠らせる」歌であって、「癒す」歌ではないということ。

次回、公爵様は眠ったはずなのに――目覚めた彼の様子が、おかしいのです。そして、それに気づくのは、この城でただ一人だけ。


【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。

皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。


次回、第33話「眠っているのに、休めていない」でお会いしましょう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ