第32話: 「あなたの代わりは、もう居ります」
その一団は、朝靄の中を、音もなく登ってきた。
白い馬車。白い装束。聖歌庁の紋章――閉じた唇に、月をあしらった徽章。
嵐の辺境の泥道を来たというのに、彼らの裾には、汚れひとつなかった。
馬車から降り立った娘を見て、私は、息を呑んだ。
美しい人だった。
銀に近い淡い金の髪を、一筋の乱れもなく結い上げて。灰色の瞳は、湖の底のように静かで。年の頃は、私とそう変わらない。
けれど――何かが、おかしかった。
長い旅の終わりに、人は普通、息を吐く。城を見上げて目を細めたり、迎えの者に会釈をしたり、風の冷たさに首をすくめたりする。
彼女は、そのどれもしなかった。
ただ、まっすぐに立っていた。
まるで、置かれた楽器のように。
「聖歌庁認定、鎮魂の歌い手。イゾルデと申します」
彼女は、私を見た。目が合った。
その瞳は、何も映していなかった。
「あなたが、登録外の歌い手ですね」
声は澄んでいて、抑揚がなかった。
嘲りでも、敵意でもない。ただ、事実を確認するだけの声。それが、どんな侮辱よりも、私の足元を冷やした。
「……セレスティア・フォン・ヴァルトハイムと申します。ようこそ、我が城へ」
精一杯の礼をとった私に、イゾルデ様は、何も返さなかった。
微笑みも、頷きも、まばたきさえも。
――この人は、笑わない。
そう気づいたとき、背筋を、細い針が滑り落ちた。
白い一団が城の広間へ通されたのは、それから間もなくのことだった。
「帰れ」
現れたジルヴェスター様の第一声が、それだった。
「我が城に、聖歌庁の世話になる者はいない。呪いはもう砕いた」
「いいえ、閣下」と、イゾルデ様は言った。「閣下は、まだ眠れておいでではありません」
広間の空気が、止まった。
「新月の晩に、この城の窓が鳴ると聞き及んでおります。魔力の残滓が、四年ぶんの澱みとなって血に残っている。放置すれば、いずれまた」
「……なぜ、それを知っている」
「聖歌庁は、王国の眠りを預かっておりますので」
彼女は、淀みなく答えた。用意された答えではなかった。ただ、そう教え込まれた者の答え方だった。
「王命により、貴領に参りました。閣下の夜啼きの呪いは、当庁が責を負って鎮めます」と、イゾルデ様は続けた。「――一晩だけ、お試しくださいませ。それで不要とご判断なさるなら、明朝、王都へ戻ります」
「試す必要はない」
ジルヴェスター様は、私を見た。
その目に浮かんでいたのは、確信だった。この四年間、彼を眠らせたのは私だけだという、疑いようのない確信。
――お願い、そのまま帰らせて。
そう思ってしまった自分が、たまらなく醜くて、私は俯いた。
「閣下」
沈黙を破ったのは、ブリュンヒルデ様だった。
彼女は苦しげに、けれど騎士として、言うべきことを言った。
「……王命を、門前で追い返せば、口実を与えます。ファルクの時と、同じ轍を」
ジルヴェスター様の顎が、硬く強張った。
彼は、長く息を吐いた。
「一晩だ」
その夜。
私は、寝室の隅に立たされた。
立ち会いは許された。歌うことは、許されなかった。
イゾルデ様は、寝台の傍らに、椅子も置かずに立った。
手を組むこともせず、目を閉じることもせず。ただ、口を開いた。
――音が、消えた。
それが、私の最初の感想だった。
彼女の歌は、旋律ではなかった。歌が広がるにつれ、部屋から音が抜けていくのだ。暖炉の薪が爆ぜる音。窓の外の風の音。ハンナの衣擦れ。ルルの、塔からの遠い鳴き声。
ひとつ、またひとつと、世界から音が引き算されていく。
最後に残ったのは、彼女の声だけだった。
美しかった。恐ろしいほど、美しかった。
その美しさは――夜更けの雪原に似ていた。誰の足跡もない。誰も、生きていない。
私の子守唄は、痛みを「連れていく」歌だ。
この人の歌は、痛みごと、その人を「消す」歌だった。
寝台の上で、ジルヴェスター様の瞼が、落ちた。
――三十も数えないうちに。
私が、四年かけて、少しずつ、少しずつ、ほどいてきた人が。
毎晩、喉が枯れるまで歌って、ようやく寝息をひとつもらえた人が。
あんなに、簡単に。
膝が、笑った。
壁に手をつかなければ、その場に座り込んでいたと思う。
やがて、歌が止んだ。
部屋に音が戻ってくる。薪が爆ぜ、風が鳴り、私の心臓が、うるさいほどに鳴っていた。
イゾルデ様は、振り返りもせずに言った。
「お聞きになりましたか」
その声には、勝ち誇ったところが、微塵もなかった。
だから、余計に、逃げ場がなかった。
「これが、鎮魂の歌です。……あなたのそれは、ただの子守唄です」
彼女は、静かに歩き出し、私の横を通り過ぎる時、ようやく一度だけ、こちらへ顔を向けた。
灰色の瞳が、私を映さないまま、言った。
「あなたの代わりは、もう居ります。もう、無理をなさらなくてよいのです」
扉が閉まる。
寝室には、ジルヴェスター様の寝息だけが残った。
深く、規則正しく、穏やかな寝息。
私がずっと、聞きたかった音。
――どうして。
どうして、こんなに、恐ろしいのでしょう。
私はその夜、彼の寝顔を見つめたまま、一睡もできなかった。
お読みいただきありがとうございます。
「私の歌でしか、あの人は眠れない」――セレスの唯一の武器であり、たったひとつの居場所が、たった一晩で揺らぎました。
ですが、イゾルデの歌には、誰も気づいていない決定的な違いがあります。それは「眠らせる」歌であって、「癒す」歌ではないということ。
次回、公爵様は眠ったはずなのに――目覚めた彼の様子が、おかしいのです。そして、それに気づくのは、この城でただ一人だけ。
【ブックマーク】【評価】での応援、心よりお待ちしております。
皆様の応援が、眠れぬ城に寝息を取り戻すセレスの子守唄になります。
次回、第33話「眠っているのに、休めていない」でお会いしましょう。




